経済・政治・国際

2009年7月26日 (日)

ハローワークへの恨み

 千葉県で、ハローワークの女性職員が、求職者の女性からガソリンをかけられ火をつけられ、火だるまになって重傷を負うという事件が起こった。容疑者の女性は「仕事を探していたが見つからず、自暴自棄になって脅かそうとした。自分も死のうと思った」と語っている。深刻な雇用情勢の中、とうとうハローワークにも不満の矛先に向けられたというわけだ。職員にとっては気の毒なことだが、ハローワークに対する恨みつらみというのはわからぬではない。私にとってハローワークとは、余計なことに口を出す一方、肝心なことは何もやってくれない無力な公共機関であるからだ。

このブログのタイトルは、私自身のある個人的な出来事に基づいているが、それもハローワークにまつわるものである。すでにどこかで書いたと思うが、もう一度述べておこう。

私は、以前、偶然にも企業舎弟系の会社に就職する羽目になった。この会社は大袈裟でなく、正真正銘のさる広域暴力団系列で、今年になって、社長が逮捕されマスコミでも報道された。なぜこんな会社に入ったのかというと、ハローワークの紹介である。しかし、そのこと自体を恨んでいるわけではない。有象無象の企業から、求人依頼が来るわけだから、それをいちいちチェックすることは不可能であろう。私自身企業舎弟であることを明確に知り得たのは、社長逮捕のニュースにふれてからのことである。しかし、とんでもない会社であることは、在職中から感じていた。

幸か不幸かそこは短期間で解雇され、その際、解雇予告手当が支払われなかったため、労働基準監督署に相談に行った。そして、名刺を差し出した途端担当者の表情が変わった。つまり、その会社の退職者からのクレームが殺到していたというわけだ。そして、一言、

「こういう会社は、私どもの行政指導では手に負えないので、ご自身で裁判していただくより他ないと思われます」

と言ったのだ。要するに、門前払いということだ。

しかし、話はそれで終わらない。労働基準監督署が匙を投げてしまった以上解雇予告手当の請求は諦め、同じ建物内にあるハローワークに行くと、なんとその企業の求人がまだ紹介されていたのである。私は怒り心頭に発した。これでは、ハローワークがヤクザ企業の片棒をかついでいるのと同じではないか。

私と同時にその会社に入った者が何人かいたが、会社の実態を知ると、みんな辞めていった。中には、大手証券会社を辞めて、この会社に来た者もいた。ハローワークが紹介を中止しなければ、犠牲者がどんどん増えていくのである。よく縦割行政の弊害が指摘されるが、労働基準監督署とハローワークは共に厚生労働省東京都労働局内の部署である。同じセクションにも関わらず、全く連携が取れていないというのはいかがなものであろうか。

 ちなみに、インターネットの就職情報サイトでこの会社のことを検索したことがあるが、人の入れ替わりが激しい会社の可能性があると警告を発していた。民間の情報サイトですら注意を呼び掛けているのに、公共の機関が指をくわえて傍観しているというのはどういうことだろうか。行政による不作為の罪は大きい。

 私は比較的多くハローワークを利用している方だと思うが、不満は他にもある。もちろん個々の職員の中には、親切に対応してくれる者もいるが、仕組みそのものに問題があるという印象を拭えない。

 例えば、男女雇用機会均等法の5条に「事業主は、労働者の募集及び採用について、女性に対して男性と均等な機会を与えなければならない」という規定があるため、ずいぶん前から、募集に男女の区別を明記できなくなっている。これは、民間の就職情報誌も同様の規制を受けているが、これに不便を感じている人は少なくないと思う。事業者は結局は自分の希望する人材しか採用しないのだから、求職者は、最初から見込みのないところに連絡を取ったり履歴書を送ったりしなければならないことになる。無駄足を踏むのは馬鹿らしいので、男女どちらの募集なのか憶測したり確認したりすることになるが、それにしても余計な手間が増える。民間の情報誌などの場合、すでに、女性募集の場合女性の写真を掲載するというルールまで確立されているが、知らない者にはこのメッセージは伝わらない。

 そもそも性別によって仕事の適性があるなどというのは当たり前の話であり、それをいちいち規制することの方がおかしいのである。さらに言えば、求人票の表記に規制を加えるだけで、女性の就職を促進できると考えているのもおかしな話である。会社経営者はしたたかである。この程度の規制で、方針を変えたりしない。このようなきれいごとは、利用者の混乱や負担を招くだけで何の役にも立っていない。ハローワークのくだらぬ人権配慮によって、みんなが迷惑しているのである。

 ハローワークはこれに懲りず、さらに余計なことをしてくれた。それは、年齢指定の制限であり、求人票に「~歳まで」という掲載ができなくなってしまった。もちらん、年齢差別につながるからという理由からだが、これが何のメリットもないことは、前述の場合と同じなので繰り返さない。これも民間情報誌に適用されているが、その場合、若い人の写真を掲載したり、「20代中心の若い人の職場です」と書いたりすることによって募集年齢が憶測できるようになっているようだ。

ハローワークでは、当然ながら、このような間接情報を掲載するわけには行かないので、求人票から事業者の本音を読み取ることはできない。そのため、苦肉の策として、職員が、会社に電話をかける際、年齢が高いと採用の見込みが薄いかどうか確認したりして対応している。

まさに茶番という他ない。意味のない規制を設けた結果、そのしわ寄せが利用者や現場職員に来ているのだ。

マザーズハローワークなども同様である。数年前まで、私は、交通の便のよい渋谷のハローワークをよく利用していたが、ある日突然女性専用のマザーズハローワークに変わってしまい、男性は利用できなくなってしまった。だいたい求人票に男女の区別を記載することすら禁じている人権感覚にやかましい役所が、建物を男女別々にすることには何も感じないのであろうか。そもそもハローワークを男女に分けることによって、どんなメリットがあるというのだろうか。女性専用車両とはわけが違う。マザーズハローワークという名前だけはカッコいいが、何となく時代の空気に便乗しただけだという気がしないでもない。

 ハローワークの正式名称は、今でも公共職業安定所である。このようないかめしい名前がついているのだから、国家権力を使って企業に対する規制や行政指導が行われているのかと言えば、そんなことはない。求人に男女差別や年利差別をなくすように強制する権限など当然持ち合わせていない。それで、求人の表記に規制を加えることによってお茶を濁しているだけで、利用する側からすればありがた迷惑な話である。

ならば情報量が多いかと言えば、民間の求人情報誌が多数発行されている中、この点においても情報誌に遥かに後れをとっている。

求人情報誌では、前述したように規制の隙間をくぐって、利用者の便宜を図るべくさまざまな工夫がなされているので、今後差はどんどん開いていくことだろう。

 また、ハローワークでは求職者に仕事を紹介した際、紹介状を発行し、面接の際それを先方に手渡すことになっている。そして、事業者は、採用・不採用の結果をハローワークに報告し、不採用の場合はその理由を書かなければならない。これなども、双方に負担を強いるだけで、何の役にもたっていない。採用・不採用は会社にとって影響が大きいので、こんなハガキ一枚で圧力がかかるはずがないのである。

 そもそもこんな小手先の方法によって、就職状況が改善されるわけがはない。もし規制をするなら、もっと強力なものにするか、事業者にメリットを与えるかである。

 規制として是非やってもらいたいこととして、悪徳企業対策がある。今日、悪事は、ほとんどの場合、個人ではなく会社という組織を通して行われている。それに一般市民を巻き込むようなことは、何としてでも防がねばならないはずだ。ハローワークや労働基準監督署はそのような情報が寄せられるポジションにあるのだから、それを積極的に収集・活用すべきであろう。それをしていないのは、怠惰と言えないだろうか。

一方、事業者にメリットを与える点に関しては、積極的に雇用した企業に対しては、税制上の優遇措置などのインセンティブを与えることだろう。きれいごとだけは並べるが、自分の財布を痛めることは一切しない、これが労働行政の本音と言っていい。

ここまで書いてきて、このような行政のあり方は、このブログでしばしば指摘している「肥大化したヒューマニズム」の構造ときわめてよく似ているのではないかという気がしてきた。あるいは、私自身が似たものに反応することの現れなのかもしれない。私からすれば、求人票に性別や年齢の記載を禁止することは、過剰なヒューマニズムである。今日、この手の人権感覚が、社会のあらゆる局面に蔓延しているのではなかろうか。表層言語のみで語られるこういった無用な人権感覚の正体について、我々はもっと注意を払うべきなのだ。

 

2009年7月20日 (月)

臓器移植法改正に思う

臓器移植法改正がA案で参議院も通過し、ようやく可決した。本当に良かったと思う。

逆に言えば、このようにまともな法案が通るために、何故12年もの歳月を費やさなければならなかったのか、ということである。

A案の骨子は次のものである。

    脳死は人の死である。

    本人及び家族は、脳死判定や臓器提供を拒否できる。

    提供者(ドナー)の年齢制限を撤廃する。

    本人の意思が不明の場合、本人代って、家族が提供を決定できる。

原則本人が意思決定するのが望ましいには違いないが、その年齢に達していなければ、家族が判断するより仕方がない。

A案に反対する家族の声として、もしこの改正案が通れば、脳死と判定されたら臓器を提供しなければならないという世論が強まるのではないか、といったものがあった。そして、この声に同調する専門家や議員たちも数多くいたに違いないない。しかし、そのようなくだらない理由により、長い間臓器移植が抑制され、助かる命が失われてきたのかと思うと、情けなくなってくる。親なら、決然と拒否すればよいだけの話ではないか。

これは、生命倫理の問題と言うより、個人主義が未塾な日本人の問題ではないかという気さえしてくる。複雑な問題であればあるほど、人によって意見がまちまちであって当然である。したがって、当事者が判断するのが一番望ましいに決まっているのだ。

慎重論の名の下にこの問題が長い間放置されてきたことは、犯罪に等しい。A案の中心人物、河野太郎議員は、不作為による間接殺人だと言っていたが、私も全く同感である。

もう一つ、慎重論の根拠となったものに、日本文化の特殊性があった。これは、1997年の臓器移植法の際設立された脳死臨調でも議論になった。同臨調の梅原猛などは、西洋文明では死んだら死体は物質になるが、日本人にはそのような見方に馴染まないと言って、脳死を人の死とすることに反対した。同臨調の米本昌平は、最初梅原と同様の立場を取っていたが、その後調査を行った結果、この問題における日本と西洋の差はないと結論づけ、自説を撤回している。

確かに、キリスト教的な考え方からすれば、死んだら魂は天国に行くので、遺体は魂の抜け殻に過ぎない。しかし、ヨーロッパ人の精神構造の基層にはキリスト教とは異なる土着的宗教観が残っており、これに関しては洋の東西の違いはそれほど大きくないのである。

このような議論はすでに終っていたのかと思っていたが、今回の改正をめぐって再び頭をもたげてきた。いずれにせよ、臓器提供しなければならない空気が強まるとか、日本文化の特殊性とか言った議論は、不作為による殺人を放置する理由としては、あまりにも馬鹿げている。

そして、この間、日本では移植ができないために、海外に渡航して移植手術を受けに行った人が多数現れた。プロレスラーのジャンボ鶴田は、フィリピンで肝臓移植手術を受けたが、その手術で亡くなっている。

渡航先として、アメリカ、オーストラリア、中国、フィリピンなどがあるが、正確な数は把握されていない。実態が把握されない理由の一つに、臓器密売の闇市場が存在することがある。梁石日の「闇の子供たち」は、これをテーマに取り上げたが、この小説は映画にもなっている(阪本順治監督)。

臓器売買によって移植手術を受けるなどというのは、けしてあってはならないことであろう。脳死移植ではないが、以前テレビで、あるアジアの貧しい村では、村人の約半分が腎臓を売っていることが紹介された。人によっては、腎臓摘出後体調を崩し、働けなくなってしまった者もいるという。腎臓の値段も日本円にすれば、30万円程度のかわずかな金額であった。

このような闇市場を根絶する上でも、国内の正規のルートで移植手術が受けられるような環境をいち早く整えるべきである。

体が温かく、髪の毛が伸びることもあり、死んだという実感がないため、死を受けとめることには抵抗があるという、親の気持ちはわからぬではない。しかし、脳死そのものが人工心肺によって作られた状態なので、生きていると感じるのはやはり錯覚にすぎないのだ。今後医療技術がさらに進歩していけば、脳死状態のままいくらでも延命させることが可能となるだろう。

これに類した問題は、認知症においてもある。認知症とは、身体をメンテナンスする技術と、脳をメンテナンスする技術との間におけるギャップがもたらした病と言えなくもない。将来、身体より複雑な構造をもつ脳における治療技術が発達すれば、この問題は解決されるかもしれない。しかし、その間に、身体の医療技術がさらなる進歩を遂げれば、ギャップは解消されないことになる。認知症は、延命治療によってもたらされたという、皮肉な側面をもっている。

以前、対称性と非対称性について述べたが(「肥大化ヒューマニズム」参照)、延命治療は、まさに非対称性の世界の典型ではなかろうか。非対称性は、人間に安全と快適さをもたらした一方、人間の反自然的傾向を助長させてしまった。医療の発達により、乳児死亡率は激減し、感染症を初めとする多くの病気が克服され、人間は他の動物とは比較にならぬほどの長命を獲得した。しかしその半面、人口は爆発的に増加し、人類全体の体重の総量は、他の生物種に比べて飛びぬけて巨大なものとなった。それが今日、地球環境に対する負荷の原因となっているのである。

また、日本のような先進国に限って言えば、年齢構成が逆ピラミット型になり、かつて経験したことのない社会が生まれつつある。昔も、80代、90代の老人はいたが、彼らはいわば超エリートで稀な存在であり、そのため尊敬もされてきた。しかし今日、人口構成における高齢者の割合が飛躍的に増加した結果、さまざまな問題を引き起こしている。これはまさに文明の逆説ではなかろうか。

以前NHKの「長寿の謎を解く」という番組で、家森幸男が、世界各地の食生活の疫学調査を行った結果、ウィグル族のカザフ族の食習慣を、野菜を食べないため短命であるとして批判していた。しかし、カザフ族の人々は、突然天に召されることは幸福な死に方であるとして、満足し喜んでいるのである。私はこの考えにも一理あると思う。彼らは、対称性に近い世界に生きており、長寿のみを基準に、ライフスタイルの是非を判断するのはいかがなものであろうか。

ハックスレーの「素晴らしき新世界」によれば、未来社会では、老人は青年のまま年を取り、ある日突然死する。この作品はアンチユートピアをモチーフに描かれたと言われているが、今日想像される未来社会はもっと悲惨でありかつ深刻である。すなわち、たくさんの医療機器にチューブでつながれた老人たちが、百年でも千年でも長生きするというものだ。さらにコンピューターによる脳へのプラグインが実現すれば、マトリックスのようにベッドで眠ったまま永遠に幻影を見せつづけることも可能となろう。延命技術の行き着く先は、恐ろしい未来なのだ。

過剰な医療行為は、肥大化したヒューマニズムの一つの現れに他ならない。そして、再三指摘しているが、それは、生存権が否定されている現実とのバランスにおいても問題視されなければならない。多数の路上生活者が行き倒れしている中、一握りの裕福な高齢者に対してのみなされる過剰な医療は、不公平以外の何物でもない。さらに、目を海外に転じれば、多くの子どもたちが今も餓死している。一部の人々のためだけの手厚いヒューマニズムなら、あえて放棄すべきではなかろうか。

 不老不死は、かつて権力者の究極の欲望であった。秦の始皇帝しかり、錬金術における賢者の石しかりである。そして、これは一部の特権階級のみに許された邪な欲望に他ならなかった。現代の過剰な延命治療も、これと似ているのではないか。だとしたら、たとえそれが技術的に可能であったとしても、あえて差し控えることも一考に値する。そのような医療からは、人類にとって幸せな未来は見えてこないと思われるからである。そして、無限膨張した人間観から等身大の人間観へと立ちかえるべきなのだ。

2009年7月10日 (金)

信長嫌い(2)

 先日のNHKの歴史秘話ヒストリア(謎の忍者軍団 知られざる“忍びの里”)で、信長によるジェノサイド(大量虐殺)の記憶が、今も生々しく語り継がれている町が紹介された。

1581年の天正伊賀の乱で、信長は、伊賀に対して6万の大軍を差し向けた。迎え撃つ伊賀勢は約九千。圧倒的な軍勢で攻め込み、神社仏閣を焼き払い、伊賀は大打撃を受けた。伊賀忍者の首領、百地三太夫らは柏原城に立てこもったが、信長は忍者を恐れていたせいか、和議を持ちかける。結局、百地三太夫らは紀州へ逃れることとなる。

同番組では、その百地三太夫の末裔と思われる百地氏が、天正伊賀の乱にまつわる忌まわしい記憶について語ってくれた。百地家では、今も、「ち」は血に通じるということで忌み嫌われ、そのため百地の読みも「ももぢ」ではなく「ももじ」なのだという。また、信長に対する反感は百地家だけではなく、地元の人々の間にもいまだに根強く残っているという。

また、百地氏は、無残に頭の砕かれた地蔵を指し、これも信長によって破壊されたものだと語っていた。

ちなみ、信長によって破壊された仏像は伊賀だけではなく、至るところにある。以前関西を旅したとき、このような仏像を私はいくつも見ている。関東にも、破壊された仏像はあるが、それは明治期の廃仏毀釈によるものである。

歴史上の人物を評価する際、ジェノサイドが見過ごされてよいはずがない。信長は、伊賀以外でもたくさんの虐殺を行ってきた。叡山焼き打ちなどは当時でも常軌を逸した行動であったし、長島一向一揆では、2万もの男女を焼き殺している。秀吉が調略を用い戦を避けたことと比べると、信長の暴虐ぶりはいっそう際立つ。「鳴くなら殺してしまえホトトギス」とあるように、稀有の殺人鬼だったのである。

ところで、前回「信長嫌い」で、信長の成果主義について触れた。このことを裏付ける本が見つかったので紹介したい。それは、

谷口克広「信長と消えた家臣たち」(中公新書)

である。

柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興

これらの武将の名はよく知られているが、彼らは、信長の家臣団の中でも勝ち組みであった。

一方、一時は有力家臣でありながら、その後、追放されたり粛清されたりして、消え去っていった武将たちもいる。信長は、他の戦国大名と比べて、追放や粛清が異常に多かったと、同著では指摘している。

追放された家臣の中で比較的歴史に名をとどめているのは、林秀貞(通勝)と佐久間信盛であろう。林は織田家一番家老の出で、1556年、信長と弟の信行の家督争いの際信行側についたが、その後許され降格されることもなかった。しかし、その後24年も経ってから、このことが謀反の罪に問われ、追放されてしまうのである。柴田勝家も信行擁立に加わっていたが、柴田に関してはお咎めなしであった。

佐久間信盛も、織田家重臣の家に生まれ、家督争いの時は信長に味方し、その功績により筆頭家臣となる。その後も、主だった戦いでは常に活躍し、「織田株式会社の副社長」と言われる地位にいつづけた。

ところが、15808月、突然信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、高野山に追放されてしまうのである。高野山に落ちるときはつき従う者がわずか二、三名だったという。「信長公記」でも佐久間信盛の評価は高く、19ヶ条の折檻状の内容もほとんどが難くせに近いものであった。この中で、信長は「本願寺攻めに5年間もかかり、功績がない」などと非難しているが全くの言いがかりであろう。佐久間信盛は、織田家中屈指の勇将だったのである。

また、同書では、中川重政(柴田勝家と争い、改易)、塙直政(本願寺との戦いで討死。敗戦に怒った信長により所領を没収)、簗田広正(加賀の平定に失敗し失脚)、神部具盛(幽閉後失脚)、関盛信(幽閉)、津田一安(織田信雄により誅殺)、堀秀村(追放)、磯野員昌(追放)等のことが紹介されている。

この中でも、中川重政、塙直政、簗田広正、津田一安などは、柴田勝家らとも同格の有力武将であったが、信長に抹殺されたことによって、歴史から消えていくこととなる。

信長は合理主義者であり、有能な家臣を家柄に関係なく取り立て、今でいう成果主義をいち早く取り入れたなどと言われている。しかし、これらの事例を眺めると、合理主義とはかけ離れたものであったことがうかがわれる。ほとんど気まぐれに、長年仕えしかも功績のあった者をいとも簡単に使い捨てにした。これでは、忠義心など生まれてくるはずもないのである。正当な理由もなく追放したり粛清したりすれば、恐怖が支配するだけで、心から従う者など誰一人いなくなってしまうだろう。

そもそも成果主義とは、個人主義が成立した流動性のある社会においてこそ効果を発揮しうる。戦国武将の場合、家を重視するし、スカウトされた場合を除けば、他の大名の家来となっても重く用いられる可能性は少ない。だから、主君が末代に至るまで所領支配を保障する本領安堵という考え方の方が、武士社会においては合理的なのだ。

また、評価の基準は公正で客観的でなければならない。信長のように恣意的かつ感情的なやり方では、かえって逆効果であろう。これでは、いつ自分が言いがかりをつけられないともかぎらず、明日は我が身という疑心暗鬼が募るばかりである。そのため、それならいっそのこと、こちらの方から先に裏切ってやろうと考える者が出てきても不思議はない。

現に、謀反者が次々と現れ、信長はそれに苦しめられることとなる。天下の趨勢が定まった後も、松永久秀、別所長治、荒木村重による謀反が起こる。本能寺の変もこのような一連の動きの一つと見るべきであろう。

谷口は、明智光秀の謀反を起こるべくして起こったものだと指摘する。当時光秀は67歳だったとする説が有力だが、この説をとれば、光秀は信長や秀吉よりかなり年長だったことになる。さらに嫡男・光慶は13歳とまだ幼く、この年齢要因が謀反の動機の一つとなる。すなわち、光秀は恐らく信長より長く生きることはなく、信長の性格からすれば、自分の死後明智家を取りつぶす可能性がきわめて高い。そこで、乾坤一擲の賭けに出たというのだ。

いずれにせよ理不尽な成果主義が、信長にとって命とりとなったことだけは間違いない。

江戸時代、信長には全く人気がなかった。それは、庶民だけでなく、武士や学者の間においても同様である。例えば、新井白石などは、

「すべてこの人天性残忍にして、詐力をもって志を得られき。されば、その終わりを善くせられざりしこと、自ら取れる所なり。不幸にあらず」

と述べている。

つまり、本能寺の変は自業自得だったというわけである。

私は、この言葉に100%共感する。今まで、今日の信長評価に対してずっと違和感を覚えていたが、私の信長像は、江戸の人々からすればごく当たり前のものだったということになる。

信長の評価が急速に高まったのは、明治以降のことであり、それは天皇家を保護したことによるという。しかし、今日の評価はこれともまた異なり、創造的破壊のシンボルといったイメージが強いのではなかろうか。そしてそれは、多少の理不尽があっても時代を先に押し進めるためには仕方がないといった見方とも重なる。

そして、このような信長観は、経営者の独善・独裁に免罪符を与えているような気がする。経営者、特に中小企業の社長の中に、いかに信長気取りの輩が多いことか。信長のように、突然過去の失敗をあげつらねたり、難癖をつけて解雇するなどという例も枚挙に遑がない。

信長賛美の風潮には、経営者のわがままやパワーハラスメントを助長するといった副作用があり、さらにそれは、社会のモラルにも、悪しき影響を与えているのではないか。

NHK大河ドラマで、信長を批判的に扱った作品は一本もないが、信長の理不尽な言動や、虐殺に手を染めていたことは十分に読み取れる。それでも信長を英雄視するということは、これらの行動を許してしまっているということに他ならない。

しかし、江戸時代の人々はそうではなかった。すなわち、信長の残虐行為をけして許そうとしなかったのである。

当時の識者の信長評は、次のようなものである。

「孝行の道厚からず、ことに無礼におわせしによって、果たして冥加なく早く過させ給なるべし」(小瀬甫庵「信長記」)

「敵国の兵といえば、皆討ちも亡ばさでは叶わざるようにおわしまし」(小瀬甫庵「信長記」)

「信長猜忌、頼朝より勝れり。その残暴、頼朝のなさざる所なり」(太田錦城「梧窓漫筆」)

「局量の狭少なるは、遥かに諸将に劣れり」(太田錦城「梧窓漫筆」)

今こそ、江戸の人々の良識に、見習うべきではなかろうか。

2009年7月 6日 (月)

肥大化したヒューマニズム

大分以前のことだが、手塚治虫の漫画「マグマ大使」の実写版がテレビで放映されたことがある。その中に、少年が怪獣の人質にされたため、本来なら簡単に勝てる相手にマグマ大使が苦戦するという一話があった。しかし、アース(神のような存在)はマグマ大使に、たとえ人類が滅亡しても絶対に少年の命を犠牲にしてはならないと厳命を下す。たった一人の命を救うことと人類全体を天秤にかけることは、おかしいのではないか? 私は、子ども心に違和感を覚えていた。

1977年、日本赤軍が日航機をハイジャックし、バングラディッシュのダッカ空港に強制着陸した後、日本政府に対し身代金16億円と日本に勾留・服役中の赤軍派9名の釈放を要求した。当時首相だった福田赳夫は「人命は、地球より重い」と言って、この要求を呑むという決断を下す。

その後、ドイツでハイジャック事件が起きた際には特殊部隊を突入させ犯人グループを制圧したため、日本政府の対応は手ぬるいと批判を浴びたが、当時の福田首相の判断はむしろ一般的であった。しかし私がひっかかったのは、そのことではなく、福田首相の言葉である

人命を尊重することに異論はないが、「人命は、地球より重い」というのは、いくら何でも言いすぎであろう。言葉尻をとらえるつもりはないが、地球に67億の人口があるとすれば、単純計算すれば、地球の価値は一人の価値の67億倍でなければならないはずである。たとえヒューマニズムであっても、人一人の価値を地球大にまで膨張させるというのは、どこか病んでいないだろうか。

これらは、ヒューマニズム論じる上で象徴的なエピソードだと思う。これを私は、「肥大化したヒューマニズム」と呼んでいる。言葉を替えれば、人類の特権意識と言ってもよい。

ヒューマニズム(人間中心主義)というからには、これは人類のみに適用され、動物や他の生命体は対象外に置かれることになる。だから、生命尊重ではなく、あくまで人命尊重なのだ。そして、ヒューマニズムのもつ重要な側面は、人類のみを特権的存在と見なし、他の生命から区別することでもある。最近、地球環境問題への関心が高まり、自然との共生が叫ばれているが、人間を地球の中の一生命体ととらえる見方とヒューマニズムとは明らかに矛盾する。共生思想は、人類の特権性を放棄することにつながるからだ。

具体的な例を挙げよう。我々は、血のしたたるステーキを何の躊躇いもなく口にする。そして、この背後にある、家畜の大量虐殺という事実に、目を向けることはない。しかし、牛や豚には、犬や猫と同程度の知能があり、それでも無感動でいられるというのは、人類だけが特別という意識、すなわちヒューマニズムによるものだと私は解釈している。

ある小学校教師が、クラスで豚を飼育し、卒業時にみんなでそれを食べるという教育実験を行った。これは、「豚がいた教室」(主演:妻夫木聡)として映画にもなった。いのちの問題を考える上で興味深い試みだと思う。

何を馬鹿馬鹿しいと思う人がいるかもしれないが、少なくとも大昔の狩猟民族には、狩りの獲物の肉を食べるときに、後ろ髪引かれる思いがあった。

そして、これを思想的問題としてとりくんでいる者がいる。中沢新一である。オウムに協力したことでマスコミや学会からパッシングを浴び、しばらく沈黙していたが、最近、次々と著作を発表している(「精霊の王」講談社 他)。これらの著書で訴えている内容は、一言で言えば、「動物を殺すな」ということである。かつてニューアカデミズムの旗手としてもてはやされた中沢にしてはあまりにもシンプルで、ちょっと意外に思われるかも知れないが、彼の関心が今ここにあることは間違いない。

中沢は、この問題を論じる際、文化人類学的知見を用いている。そして、自然と人間とが対等に近い関係性を持っていたかつての世界観を「対称性」と言い、現代人は「非対称性」に陥っており、ここに現代文明が抱える病根があると指摘する。

著書では、主にアメリカ原住民など、狩猟民の神話が紹介されている。狩猟は、弓矢や槍をもって行われるが、この程度の武器では、人間は動物に対して圧倒的優位に立つことはできない。そのため、返り討ちにあって殺されることもしばしばある。そして、獲物を食べる際、自分も殺される危険性があったのだから食べることを許してほしいと祈るのだという。対称性とは、このような人間と動物との力関係のことを意味する。

イルクーツクの神話によれば、ある日、このバランスを崩す決定的な出来事が起きる。すなわち、突然恐ろしく斬れる鋭利な刃物が出現し、人間はそれを使って動物たちを次々に殺しはじめたのだ(神話では動物同士の争いになっているが)。この鋭利な刃物というのが、実は日本刀だったのだ。年代は忘れたが、恐らく11~13世紀頃のことであろう。これは、当時から日本とこの地域に交易があったことを示唆するが、この点については、中沢の叔父、網野義彦の著作に詳しい(「日本社会の歴史」岩波新書)。

ところで、中沢のいう対称性の世界観を見事に実践した日本人がいる。それは星野道夫である。星野は写真家で、アラスカで自然や動物の写真を撮り続けた。そして、アラスカを度々訪れ、現地のエスキモーとも交流を深め、彼が最初に発表した写真集「GRIZZLY」は大反響を呼んだ。その後も写真集やエッセイを書き続けたが、1996年、皮肉にもグリズリーによって命を奪われるのである。享年44歳。まさしく対称性の世界に生きた生涯であった。

我々の自然の脅威から隔絶された非対称性の世界に生きている。そして、その中で、ヒューマニズムや人類の特権意識もまた肥大化していったのである。対称性の世界では、自然に対して謙虚になるが、それは人間の自然に対する相対的価値の低下をも意味する。まかり間違っても、「人命は、地球より重い」などという発想は、生まれてこないのだ。

もう一つ、肥大化したヒューマニズムは、その欺瞞性においても批判されるべきであろう。たとえ絵空事であっても、現実を変えていく力になれば、それなりに評価もできよう。しかし、現実には、「人命は、地球より重い」どころか、最低限の権利である生存権すら否定されているのだ。それは、今巷に溢れているホームレスの人々の実態を見れば、明らかであろう。

憲法で生存権と一番関連の深い条文は25条である。すなわち、

「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

である。

憲法25条には、朝日訴訟という重要な判例がある。

1957年、国立岡山療養所に入所していた朝日茂氏が、月額500円の生活保護給付金では生活できないため、憲法25条に違反するとして厚生大臣を相手どって訴訟を起こした。第一審(東京地方裁判所)では原告が全面勝訴したが、第二審(東京高等裁判所)では敗訴した。その後上告中に朝日氏が死亡してしまったため、養子夫妻が裁判を続行しようとしたが却下されてしまった。

二審の東京高裁が原告の請求を棄却した根拠は、いわゆるプログラム規定説である。プログラム規定とは、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではないとする考え方だ。要するに、憲法25条はあくまで努力目標に過ぎず、具体的に社会保障をどう実施するかは厚生大臣が決めてよいことになる。その結果、厚生省の監督下にある各自治体の生活保護担当者が給付を認めるかどうかを勝手に判断することができ、憲法25条は骨抜きにされてしまったのだ。

各自治体の担当者の胸先三寸というのは、けして大げさではない。あるケースワーカーは、生活保護の希望者が3回頭を下げてきたら初めて話を聞いてやるなどとうそぶいているそうである。これは、知合いの生活保護担当者から直接聞いた話なので間違いない(もちろん言った本人ではない)。

1957年当時は、戦後間もなくで日本も貧しかったので、裁判官には、生活保護費をどんどん支給していったら財政が破綻するという思いがあったのであろう。ならば、せめて80年代の日本経済の絶頂期に、プログラム規定説を見直す判決が出てほしかった。

今日、野宿する人で溢れ、彼らの生存権があやぶまれ、実際に多くの人が命を落としている。冬の寒さを考えれば、死なない方が不思議なくらいである。

ホームレスの支援活動をしている人の話によれば、65歳以上でないと生活保護を受けるのは難しいということだ。法令で明記されてはいないが、そのような暗黙の了解があるらしい。しかし、リストラされた派遣労働者のほとんどはこの年齢に達していない。ホームレス生活者の生存権保障に関する施策は、おそまつという他ない。

その代わり何がなされているのかと言えば、公園を夜間閉鎖してホームレスの人々を締め出したり、ベンチにわざと凸凹をつけ、寝せないようにすることだ。

「人命は、地球より重い」などという高邁な理想を掲げる前に、まず目の前の現実に取り組んでほしい。

2009年7月 1日 (水)

金持ちは悪だ

私は「オーラの泉」のファンである。先日、同番組のゲストに假屋崎省吾が登場し、自慢の豪邸を披露し、そこで番組が進行した。世界中の美しい物を自分の目で確かめて集めたというだけあって、まるでヨーロッパの王侯貴族のように、豪華なシャンデリアや美しい家具調度で埋めつくされた部屋を次々に案内した。そして、美輪明宏や国分太一も、假屋崎の目利きぶりを称賛した。

しかし私は、この光景に少し違和感を覚えていた。假屋崎は、パートナーと二人だけでここに住んでいるという。そして、各室に大きなシャンデリアがあるため、電気代だけでも月に10万円はかかるそうだ。江原啓之は、この中で必要な部屋は三つだけだなどと指摘していたが、贅沢にしてもちょっと度を越しているのではないだろうか。

ちまたでは、野宿し明日の生活さえ保証されない人々が、次々に命を落としている。そういった状況の中で、王侯貴族のような贅沢三昧の暮らしをすることが果して許されるのだろうか。美輪は、苦労してきたことに対する神様のご褒美などと呑気なことを言っているが、美輪は、貧しい人々への応援歌である「よいとまけのうた」を歌っていたのではないのか。たとえ悪辣な手段で儲けた金でなくても、一個人への行き過ぎた富の集積は、やはりそのこと自体が非難に値すると思う。

実は、この「オーラの泉」の前日に放送された「朝まで生テレビ」の中で、私はある懐かしい言葉を耳にした。

それは、

「金持ちは悪だ」

という言葉である。

発言者は森永卓郎である。これに対して堀紘一が、すかさず、「あなた税金5000万円以上払っているということは、年収は1億以上ですね」とつっこみを入れていたが、森永は、「この中では僕が一番税金を払っているかもしれませんね」と平然と答えていた。

私は、森永が高収入を得ているからと言って、言行不一致だとは思わない。森永は一貫して格差社会を助長する政策を批判してきた。そして、現実が彼の言った通りになり、その結果テレビの出演回数が増え、本も売れるようになっただけの話である。むしろ、金持ちになってもなお「金持ちは悪だ」と言える潔さに敬意を表したいくらいだ。

「懐かしい」と言ったのは、一昔前は、「金持ちは悪だ」という言葉にそれほど奇異な印象を受けなかったからだ。それは、共産主義社会への夢がまだついえていなかった時代のことである。マルクス主義は、労働者から搾取する資本家、すなわち、金持ちは悪であるという観念をもたらした。また、当時はこの思想を掲げる労働組合も強かったので、社会通念とは言わないまでも、金持ち悪徳説に共感する人々も多かった。

ところが、ベルリンの壁が崩壊し、共産主義の本家であるソ連や中国が体制を資本主義よりに変えることによって、来るべき理想社会の目標を失い、金持ち悪徳説もまた衰退していったのである。

近年、新自由主義や金融資本主義が横行し、マネーゲームに明け暮れる連中が途方もない大金を手にする時代になってしまった。これにより、金持ち悪徳説が再び息を吹き返しつつある。そういった中で、森永の言葉は説得力を持ち、心に響くのである。

ところで、金持ちを悪徳とする見方は、資本主義社会固有のものであろうか。もちろん江戸時代にも、ネズミ小僧のように、大商人の蔵から金品を盗みだし、庶民にばらまく盗賊は義賊としてもてはやされた。

しかしさらに時代を遡れば、一個人に過剰な富が集積することを忌む観念は、世界中に存在したと思う。

例えば、文化人類学では、ポトラッチという行動が観察されている。ポトラッチとは、チヌーク語で「贈与」のことを意味し、北太平洋沿岸の北米インディアンに見られる。部族の中で地位や財力のある者は、それを誇示するために、高価な贈り物をする。すると、贈られた者はさらにそれを上回る贈り物を返し、それを繰り返す。これはどんどんエスカレートしていくという。

かつて栗本慎一郎は過剰‐蕩尽理論を主張し、このポトラッチに着目した。そして、このような行動原理は、現在の経済活動にも影響を与えていると指摘している。日本でもかつて、御柱祭りなどでは、親戚や知人を招いて大盤振る舞いするという習慣があったが、これなどもポトラッチに似ているのではないか。

網野義彦によれば、贈与には、通常原始的な宗教観念が伴うということである。例えば、富を集積すると邪気も蓄積され、富をすべて放出しつくさないと、邪気によって、病気や不幸になったりするといったものだ。

もちろん迷信に違いないが、それでも、富の集積を忌む観念は、貧富を是正し平等化を促進する役割も果たしていたはずである。一方、この観念が、ネガティブな方向に働くとユダヤ人差別につながったりする。

ユダヤ人差別について一言だけ言うと、阿部謹也によれば、ユダヤ人は昔から差別されていたわけではなく、13世紀頃までは、むしろ優秀な民族としてヨーロッパ社会の中で尊敬されていたという。それが、重商業主義(15~18世紀)の発展に伴い、彼らを賤視する傾向が生まれてくる。そして、早い段階からユダヤ人には金融業者が多かったという。シェークスピアの「ヴェニスの商人」が発表されたがのが、1590年代なので、その頃にはすでにユダヤ人差別が定着していたことになる。

ところで、日本においても、ポトラッチ的なものがあったかと言えば、私はあったと思う。先ほどの御柱祭の例もそうだが、江戸時代に粋とされた「宵越しの金は持たない」などとも共通するのではないか。ポトラッチは、蓄積された財を一気に消費することである。「宵越しの金は持たない」は、一日汗水流して働いた金を一晩で使い果たしてしまうことをさす。

江戸研究家の故・杉浦日向子は、引っ越しが大好きで、引っ越しの時多くの家財道具をいっぺんに処分してしまい、そのことが快感なのだと述べていた。まさしく粋を実践していたわけだ。

近代社会は、ポトラッチ的風習や粋の精神を不合理であるとして退けたが、そのなれの果てが強欲資本主義である。強欲資本主義の本場アメリカでは、破綻した投資会社の役員が何十億もの報酬を得ているという。彼らは、このような金に邪気が宿るとはもちろん考えないだろう。一方、ビル・ゲイツやジョージ・ソロスは慈善活動に熱心なようだが、彼らには昔の人の感覚が少しは残っていたのかもしれない。

金持ち悪徳説は、復権されるべきなのだ。

2009年6月29日 (月)

不受理・不起訴の闇

 もう7、8年前のことになるが、私の父が、世田谷区内で、小学1年生ぐらいの子供がトラックにはねられるところを目撃した。警察がすぐにやってきて、トラック運転手と子供に事故の状況について尋ねていた。幸い子どもに大した怪我はなかったようだったが、その時運転手が語っていた内容が事実と明らかに違っていたので、父親が口を挟んだところ、警察官から「あんたは、いいから」と言われ、肩を手で押されたという。相手が幼児なら、加害者は自分にとって都合のいいことばかり話すに決まっている。それゆえ、第三者による中立的な目撃証言が、一番客観性が高いはずである。しかし、警察はそれに全く耳を貸そうとしなかったのだ。

帰った父親からその話を聞き、私は怒り心頭に発し、すぐに110当番通報した。事故の概要を述べた後、「だから、警察は信用されないんだよ」と皮肉を言った覚えがある。当時警察の不祥事が話題になっていたからだ。

その後、私のところに世田谷警察署の若い警察官からおどおどした口調の電話が入った。それでも、私が納得しないと見ると、今度は、Uという中年警察官による恫喝めいた電話がかかってきた。まるでヤクザのやり口と同じだった。

2、3日に経って、父親から、世田谷警察署から呼び出しを受けたという報告を受けた。調書を取られたわけでもなく、大した進展もなかったようだが、もうこの件には関わりたくない様子だった。

私は、怒りが収まらず、漫画「カバチタレ」(原作:田島隆)の中で、警視庁に異議申し立てをする際、監察官室に上申書を出すという話があったので、警視庁の代表に電話をかけ、監察官室につないでくれと言ったが、広報に回された。そこでもノラリクラリとした対応を受け、結局動いてくれなかった。さらに、検察庁にも電話すると、検事らしき者が出てきて、警察ともっと話し合ったらいかがですかなどと説教され、それでおしまいであった。

警察関係者に話してみても埒があかないので、地図で事故現場から一番近い小学校を探し出し、そこに電話をかけてみた。すると副校長が出てきて、その事故のことを知っていた。そこで、もし紛争になっているようなら、うちの父親が証人になると言うと、お礼を言われ、とりあえず両親にこのことを伝え、折り返し連絡すると言われた。数日後、副校長から電話があり、子供の怪我は大したことなかったので結構ですと親から言われたとのことであった。やれることはすべてやったと思ったが、やはり釈然としなかった。

それからしばらくして、寺沢有(『警察庁出入り禁止』風雅書房他)という警察不祥事の問題を追及しているジャーナリストの講演会があったので、聞きに行った。若いがなかなか気骨のあるジャーナリストで、非常に面白い内容であった。講演終了の後、名刺を交換し、この事件の経緯をまとめたレポートを手渡すと、数日後メールが届き、証拠がないので取材は難しいだろうとのことであった。

これで、もうこれ以上この問題にはかかわるまいと諦めたのであった。

ところで、裁判員制度がスタートして、世間の注目を浴びている。しかし、事件が起きてから起訴に至るまでのプロセスは、今もブラックボックスの中にある。つまり、誰からのチェックも受けないということだ。裁判制度よりむしろこの方が問題なのではないかとさえ思えてくる。今回のように、警察から無視されるというケースは、けして少なくないからだ。

警察で門前払いされたことで問題になったのが、桶川ストーカー事件(1999年)である。この事件では、女子大生が執拗なストーカー行為を受け、埼玉県上尾警察署に何度も相談に行き、告訴状を出していたにもかかわらず、警察は全く捜査せず、結局殺されてしまい、犯人も自殺するという最悪の事態を迎えた。ストーカー規制法は、この事件をきっかけにできたものである。

しかし、その後も警察は懲りる様子もなく、相変わらず門前払いは起きているようだ。先日知人の母親が振込め詐欺により100万円の被害を受けたため、警察に相談に行ったが、全く取り合ってくれなかった。母親には認知症があり、振り込んだことを全く覚えておらず、被害の自覚すらなかったからだ。家族の者が来ても、被害届は受け付けてくれないらしい。しかし、通帳には送金した記録があり、銀行の監視カメラでも本人がATMを操作している映像が残っている。誰かわからない相手に100万円もの大金を送るわけがないのだから、振込め詐欺に決まっているのだが、それでもダメなのだ。

 些細なことだが、私の携帯に架空請求のメールが届いた時にも警察に連絡したのだが、返事しないようにと言われただけであった。架空請求のメールには、先方の電話番号が記載されており、これにより悪質な業者を捜査できると思ったのだが、そういうことは一切やらないらしい。

 このようにたとえ警察に相談に行っても、被害届を受理するかどうかは、一方的に決められてしまい、受理されなければ泣き寝入りするより仕方がない。

 被害届が受理され、捜査が行われ、犯人が逮捕されても、起訴するかどうかは、検察の胸先三寸である。日本の場合、不起訴の割合は20パーセント前後である。

先日、NHKのクローズアップ現代で、検察審査会のことが取り上げられていた。検察審査会とは、国民の中から抽選で選ばれた検察審査員により、不起訴処分の善し悪しを審査するという制度である。あまり知られていないが、意外と古い制度で、検察審査会法は昭和23年に成立している。佐野洋の「検察審査会の午後」という小説もある。

しかし、これまでは、検察審査会による「起訴相当」という勧告が行われても、最終的な決定権は検察庁が握っていたため、そのまま不起訴処分にしてもかまわなかった。実際、検察審査会の勧告を無視して不起訴になったケースは少なくない。そして、被害者家族が不起訴になった理由を知りたくても、その判断基準さえ開示されることはなかった。だから、被害者家族は検察庁の言うことを、黙って受け入れるより他なかったのである。

ところが、今回、司法制度改革の一環で検察審査会法が改正され、今年の5月からは、検察審査会の勧告に法的拘束力が認められるようになった。これにより、検察庁は、検察審査会の決定を無視できなくなったのだ。

裁判になる手前の段階で、警察や検察の判断によって、多くの場合、物事が勝手に決められてしまう。この決定が正しければ別に問題ないが、人間のやることだから当然誤りがある。その場合、被害者家族は救われないことになる。民事なら訴えれば、とりあえず裁判に持ち込むことは可能だが、刑事事件の場合それができない。この辺に、民事と刑事の大きな違いがある。

そして、裁判制度に問題があることは、今さら言うまでもない。現在、起訴された事件の有罪率は99.9%である。つまり、無罪判決は千回に1回しか下されないことになる。この確率は、ベルトコンベアーに流れてくる製品の検品作業で不良品を発見する割合に近い。いや、不良品ならもっと多く見つかっているかもしれない。このような状況の中では、無罪判決を出す時裁判官に大きなプレッシャーがかかるのは当然であり、このことは、元裁判官によっても語られている(井上薫、秋山賢三)。そしてこれが、冤罪の原因になることは言うまでもない。また、起訴した以上、検察も面子がかかってくるので、不利な証拠は一切出さないといったことにもつながってくる。

先日、渡辺謙主演「平塚八兵衛 刑事一代」が放送された。渡辺謙の熱演でドラマとしての出来は良かったが、あの中で扱われた帝銀事件の平沢貞道は冤罪の可能性がきわめて高いと言われている。そして、我々が見てきた刑事ドラマも、警察が絶対正義であるというイメージを振りまくものばかりである。

絶対正義を希求する大衆心理はどこか幼稚であり、そこには、神の裁きにも似たイメージが重ねられているのではないか。成熟社会を迎え、そろそろこういった意識から脱却しなければならない。そのためには、警察や検察のブラックボックスにメスを入れるような仕組みを作らなければならないだろう。検察審査会法の改正は、その第一歩である。

また、マスコミも、警察や検察情報に頼っているため、警察や検察を徹底的に追及することができない。元大阪高検公安部長の三井環が、検察の裏金問題を告発したが、大手マスコミは一部を除きほとんど報じなかった。警察の場合、反対派閥からのリークがあるため比較的発覚しやすいが、検察の場合は一枚岩の硬い組織なのでリークは稀で、たとえあってもこのケースのようにマスコミによって握りつぶされてしまう。このようなマスコミの警察・検察依存体質は、いち早く改められねばならぬ。

寺沢有は、講演の中で、面白いことを言っていた。それは、第二警察のようなものを作って、別々の組織が互いにチェックするような仕組みを作らないかぎり、警察の不祥事はなくならいだろうというものだ。まさに卓見である。寺沢ら心あるジャーナリストの活躍を、心から期待したい。

 そして、犯罪が、警察と検察の思惑によって取捨選択され、冤罪が量産されていく世の中を根本的にChangeしてほしい。

2009年6月24日 (水)

信長嫌い

私は、織田信長が大嫌いである。何年か前、木下藤吉郎役のガッツ石松が、信長から「サル」と罵倒されたことに腹を立て、ボコボコにしてしまうというCMがあったが、あれを見て胸がスカッとした。あのCMは、信長嫌いの本質をよくついている。もし上司が信長のような男だったら、誰でも同じような気持ちになるのではないか。部下からすれば、単にワンマンでパワーハラスメントの常習者にすぎない。パワハラも信長レベルに達すれば、殺意を抱かせるに十分であろう。

そして、現代の日本で、信長気取りの経営者がなんと多いことか。一国の首相が、自らを信長になぞらえるのだから、それも仕方あるまい。企業経営者なら、部下に対する横暴な振る舞い程度ですむが、信長の場合、その狂気を増幅し現実化させていった。私としては、信長を殺してくれた光秀に、心から感謝したいくらいだ。

ところで、歴史的に見て、信長はそれほど評価に値する偉大な英雄だったのだろうか。評価の理由は、戦国乱世の世を終わらせ、近世に導いたというところであろうが、それなら、江戸時代が良かったことの裏返しということになろう。歴史におけるIFは禁物と言われるが、たとえ信長がいなかったとしても、江戸時代のような近世社会が到来していた可能性は十分にある。社会の本質的変化は、経済発展の必然的結果であり、個人の役割はそれほど大きくはないと考えられる。

藤田達生秀吉神話をくつがえす 講談社現代新書によれば、当時、「天下布武」など言って天下統一への野心を抱いたのは一人信長だけであった。今川義元にせよ武田信玄にせよ、自ら天下を取るなどという大それた野望はなく、上洛して足利将軍を補佐しようと考えていたのである。それはちょうど鎌倉幕府の執権、北条氏のようなイメージではなかったか。当時からすれば、鎌倉幕府の滅亡は250年前であり、それほど昔のことではない。足利幕府には権力はなかったが、源氏名門としての権威は残っていたのである。だから、将軍家を盛りたてていこうと考えるのが普通であり、信長だけが異常な行動を取り、その後継者が秀吉だったことにより、歴史の流れを変えてしまったのだ。

そして、徳川幕府にせよ、幕藩体制という諸国連合だったから、ヨーロッパのような絶対王政は成立しなかった。また、鎖国のため、貿易は限定的なものとなり、その結果幕末には西洋諸国に大きく後れをとることとなる。このような国のあり方は、武家政権である以上誰が権力についても、大筋変わらなかったのではなかろうか。

また、信長は、有能な人材を積極的に登用する、今で言う成果主義を採用したと言われている。一方、林道勝のように織田家に代々仕えていた重臣でも、無能だと追放されてしまう。しかし、この方式が果たして成功したかどうかは疑問である。本能寺の変を起こした明智光秀は、有能さを買われ、織田家重臣となった。まさに成果主義によって大抜擢されたのである。しかし信長は、その光秀によって命を奪われてしまう。謀反の理由については諸説あるが、主従間に信頼関係がなかったことだけは確かであろう。

これは秀吉についても言える。草履取りから大名に取り立てられても、結局は主君を裏切ることになる。秀吉と違って信長には多くの子どもがいたが、秀吉は彼らを後継者にしようとはせず、自分が権力の座におさまってしまう。清州会議で有名な三法師(織田信秀)も、後年秀吉の臣下となる。

このように信長の人材登用は、結果からすれば明らかに失敗であった。信長が追放した林道勝のような代々の家臣団で固めた家康が、最終的には天下を取るのである。

また、悪名高い朝鮮出兵にしても、そもそもは信長が考えていたことである。信長は、朝鮮はおろか明国にまで攻めのぼることを夢想しており、秀吉は単にそれを忠実に実行したにすぎない。単なる夜郎自大の妄想が、今日に至るまで続く日朝間の禍根を残したのだ。

唯一信長に天才的な面があったとすれば、それは軍事面におけるものではないか。長篠の戦で見せたような近代戦を彷彿とさせる戦い方や毛利水軍を打ち破った鉄甲船のアイデアなどは、確かに当時の水準を超えたものであったろう。

織田信長の着想は、どちらかというベンチャー企業経営者のそれに近いような気がする。創業者のエネルギーはあっても、大きな組織を統率するだけの器ではなかったのである。その点では、家康の方が一枚も二枚も上手であった。

そう考えていくと、信長を英雄視する我々の常識にも、再考の余地がありそうだ。しかも、信長は日本史に大きな汚点を残している。それは、ジェノサイド(大量虐殺)である。

今、NHKでやっている「天地人」では、もし本能寺の変がなかったら、上杉家は信長によって滅ぼされていたとされている。

後継者の秀吉は、得意の調略により、比較的平和裏に天下統一を果たしたが、もし信長が統一していたとしたら、もっと多くの血が流されていたに相違ない。それだけでも、本能寺の変の功績は大きい。

さらに信長には、叡山焼き打ちや長島一向一揆との戦いなど、ことに仏教勢力との戦いにおいて、常軌を逸した行動が目立つ。関西を旅すると、信長による宗教弾圧の生々しい爪痕を今でも実感する。このことをもって、信長は無神論者だった言う人がいるが、それは誤りであろう。

大河ドラマ「信長」(緒形直人主演)では、信長は陰陽道の熱烈な信奉者であり、戦の際必ずお抱えの陰陽師・加納随天(平幹二郎)の占いに従って行動していた。また、手紙に自らを第六天魔王と書いたというが、これは反仏教的な傾向をうかがわせる。第六天魔王とは、仏法を滅ぼすために釈迦と仏弟子たちのもとへ来襲する天魔のことで、元々はバラモンの神であった。この点からも、信長は仏教以外の神々を信奉していた可能性がある。

信長が合理主義者であるとする説は、当時来日していたイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの「日本史」の記述に基づく。しかし、文化人類学では己の所属する文化的枠組みによって解釈する傾向があることが指摘されており、ルイス・フロイスの言葉をそのまま信じるのは危険であろう。あるいは信長自身が友好関係のあったイエズス会宣教師の喜びそうなことを言った可能性だってある。また、信長は、自らを神体として拝ませるために摠見寺を建立しているが、これは合理主義者の行動として矛盾するのではないか。人間は、時代的制約の中で生きているのだから、いきなり近代合理主義者や唯物論者が現れるわけがないのである。ゆえに、寺院に容赦なく攻撃を加えたのは、無神論者だったからというよりは、仏教と対立する宗教を信じていたためと考えた方が筋が通るのだ。

ところで、私はヨーロッパで、信長とそっくりの人物を知っている。アンチ・クリストで、古代ゲルマンの神々を崇敬し、ジェノサイドを行った者、すなわち、アドルフ・ヒトラーである。私は、以前からは、信長とヒトラーは似ていると感じていた。ヒトラーはワーグナーをこよなく愛し、キリスト教とユダヤ教を否定した。ヒトラーはユダヤ人のみを虐殺したが、ゲルマンの復興という本音からすれば、キリスト教も外来宗教であり、その信者たちを虐殺したかったのであろうが、さすがにそれは現実的にかなわぬとみて諦めたのであろう。またヒトラーには、軍略家としての才能もあった。仏敵とアンチ・クリストの違いを除けば、両者は驚くほどよく似ている。

今日、平和の理念が謳われ、臓器移植法などおいても、命に対して過敏とも思われる反応すら見られる。これほど命が大切にされる時代にありながら、何故、戦以外で大量の殺戮を行った信長がこれほどに英雄視されるのだろう。私には理解できない。

もちろん現在の視点から、過去の人物を評価することはできない。しかし、そのことを差し引いても、今日の信長像には納得がいかないのである。

2009年6月22日 (月)

プロレス論(続き)

興が乗ってきたので、プロレスについてもう少し……。

ミスター高橋は、長年新日マットのレフリーとして活躍してきただけに、暴露本とは言え、『流血の魔術 最強の演技-全てのプロレスはショーである-』には示唆に富んだ指摘が多い。ミスター高橋がなぜこのような本を書くに至ったかと言えば、新日が彼の功績に報いず無慈悲に使い捨てたからである。新日をクビになった彼は、その後警備員になったという。それによって、多くのファンを失うことになったのだから、全く馬鹿な話である。

ところで、ミスター高橋によれば、レスラーの評価基準には「強さ」と「うまさ」の二つがあるという。強いレスラーの代表が坂口征二や長州力で、坂口は柔道で、長州はアマレスで(ただし、韓国代表)、それぞれオリンピックに出場している。一方、うまいレスラーの典型は藤波辰爾である。藤波は、中学卒業後自動車整備工場で働いた後、新日本プロレスに入門したが、その後カールゴッチ杯で優勝して頭角を現し、端正なマスクと華麗な技で人気を博した。後年、長州と名勝負を繰り広げた藤波だが、格闘家としての実力はいまいちで、ガチンコ勝負なら入門1年目の新人にすら勝てないだろうとのことだ。

その点、アントニオ猪木は、「強さ」と「うまさ」を兼ね備えた選手で、それゆえ長年トップの座に君臨することができたのだ。しかし、その猪木ですら、ウィリアム・ルスカのように、日本人とはかけ離れた肉体をもつ外人レスラーには歯が立たず、そのことは猪木自身が一番よく知っていたとのことである。(したがって、猪木・ルスカ戦は100パーセント八百長だそうだ)

日本の場合、上に立つ者にはやはり「強さ」が必要で、馬場や猪木が長い間社長の座につけたのも、実力的裏付けがあったからに他ならない。

女子プロレスの話だが、ジャパン女子プロレスのメインエベントで、神取忍がジャッキー佐藤をボコボコにしてしまったことがある。力道山・木村政彦戦を彷彿させる凄惨な試合だったという。当時ジャッキーはジャパン女子プロレスの中心選手だったが、不満があったのか、神取が筋書き無視していきなりセメントを仕掛けたのだった。この試合がテレビで放映されることはなかったが、スポーツ紙によれば、ジャッキー佐藤は泣きながらリングから逃げ去ったという。このようなことがあるため、弱い者がトップを張るわけには行かないのだ。

しかし、ショウビジネスに徹するアメリカでは、「強さ」は全く評価の対象にはならず、「あの選手は強い」などと言っても、「それがどうかしたのか?」といった顔をされるという。この辺に、日米プロレスの違いが垣間見られる。

そして日本では、「強さ」の神通力は、レスラーたちだけではなく、背広組と呼ばれるフロントにまで通用するようだ。猪木モハメド・アリ戦の仕掛け人として、また新日黄金期の立役者として有名な新間寿(元営業部長)は、その著書の中で、自分が「社長」のことを心から尊敬する理由として、アクラム・ぺールワン戦のことを挙げている。

1976年にパキスタンのカラチで行われたこの試合には、私も鮮烈な印象を持っている。20世紀初頭、インドのグレート・ガマは、アメリカの名レスラー、スタニスラウス・ズビスコを僅か数分で打ち破るという快挙をなし遂げたが、ガマを輩出したインドは、隠れた格闘技大国でもあった。

ガマのインド式レスリングの流れを汲むぺールワンは、当時パキスタンの英雄であった。そして、4万の熱狂的観衆が見守る中、猪木は試合数分後、ぺールワンの腕をアームロックで文字通りへし折ったのだ。今も、ブラブラと不自然な方向に揺れ動くぺールワンの腕の映像がくっきりと目に焼き付いている。新間は、この時リング下にいたが、敵意に満ちた群衆の目にさらされ、本当に殺されるかもしれないと思ったそうだ。そして、この時の経験があったからこそ、猪木の女房役として一生捧げようと誓ったのだという。

しかし、この本が出版されて間もなく、新間は猪木にあっさり裏切られる。新間は、新日プロレス営業部長を解任され、その後、前田日明らによるUWFの旗揚げに参加する。しかし、このような仕打ちにあってもなお、スポーツ新聞紙上を通して猪木にラブコールを送り続けたのだ。この記事を読んだとき、こいつはホモではないかと疑ったくらいだ。

猪木は人を裏切ることが平気なタイプのようで、このようなエピソードは他にもある。しかし、それでも新間の未練絶ちがたかったのは、ひとえに「強さ」に対する本能的な憧れからであろう。猪木には多くの人間的欠陥があったが、それでも新日を牛耳ることができたのは、やはりレスラーとしての実力を誰もが認めざるを得なかったからではないか。

三沢光晴がノアの社長として求心力を持ちえたのも、彼が真に優れたレスラーであったからだ。足利工業大学付属高校レスリング部で国体優勝経験もあり、タイガーマスク時代の空中殺法を思い起こせば、彼が人並み外れた身体能力の持ち主であったことは疑いえない。

三沢はこれに加え、猪木にはない美質があった。三沢は人にやさしく、後輩思いだったという美談にことかかかない人物である。馬場の死後、多くの選手たちを引き連れて全日を離脱したが、それもオーナーだった馬場元子が、当時社長であった三沢にすらボーナスを10万円しか支払わず、選手たちの不満はピークに達していたからだという。そんな三沢であればこそ、プロレス界が低迷する中、他団体との交流においても中心的役割を果たすことができたのだろう。三沢を失ったことによるプロレス界の損失は計りしれない。

ところで、三沢光晴の訃報をめぐるニュースの中で、ある懐かしい人物の顔を目にした。それは、ノア副社長としてコメントしていた百田光雄である。いわずと知れた力道山の次男である。しばらくプロレスから離れていたので、今はノアにいるとは知らなかった。

全日時代の百田光雄は、「6時半の男」として人気の高い前座レスラーであった。兄の義浩とともに百田兄弟として名を馳せたが、兄はすでに他界している。

レスラーとしての、百田光雄の評価は高く、持ち味豊かないぶし銀ファイトが多くのファンを魅了していた。しかし、体に恵まれなかったため、一度もメインエベンターになることなく、地味なポジションのまま、若手の育成に力を注いできた。力道山という偉大な父を持ちながらも、トップの座を張れるだけの実力がなければ、縁の下の力持ちとなるより仕方がないのだ。

最強と謳われたジャンボ鶴田でさえ、肝炎発病後は前座レスラーに甘んじている。そして、ジャイアント馬場の死後、その後を追うかのように静かにこの世を去った。これがプロレスなのだ。

最近、政治家の世襲制の話題で持ちきりだが、八百長と言われつづけたプロレスは、世襲とは最も縁遠い世界なのではなかろうか。恵まれた肉体、身体能力、スター性、三拍子そろった天分を親から受け継ぐことは不可能に近い。坂口憲二は有名になったが、俳優としてである。

才能なき者が、親の七光りだけでスターダムにのし上がるようなことは、プロレスではありえない。プロレス界におけるストイシズムを、政治家は見習ってほしい。

2009年6月17日 (水)

三沢光晴の死

実は私は、プロレスファンである。いや、かつてファンであったと言った方がよいかもしれない。さすがに力道山の時代は知らないが、馬場・猪木の全盛期はこの目で見てきたし、長州・藤波の新日黄金期の頃もテレビにかじりついていた。

プロレスは当初より八百長のイメージがあり、相撲の八百長疑惑などといったものではなく、熱心なファンも含め、プロレスの試合が真剣勝負だと思っていた者はほとんどいなかったのではないか。そこに、レスラーたちの悲劇があった。力道山も長州力も八百長を強く否定し、アントニオ猪木はプロレス最強論を声高に唱えた。猪木はその自伝の中で、「私が強かったのではない。プロレスそのものが強かった」という名言を吐いている。

70年代後半になると、後年直木賞作家となる村松友視が、「私、プロレスの味方です」の中で、プロレスが八百長かどうかということよりも、凄みとドラマツルギーという視点から、プロレス擁護論を展開した。村松の「プロレスはプロセスである」という言葉に、多くのファンたちは合点が行ったのではないか。この凄みを最も体現したレスラーは、やはりアントニオ猪木であった。生涯二度のセメントマッチと言われるモハメッド・アリ戦やアクラム・ペールワン戦は、村松の指摘を裏づけるものとなった。

しかし、90年代に入ると、このようなプロレス観も次第にかげりを帯びてくる。その原因となったのは、やはりK1やプライドなどリアル格闘技の台頭である。エメリヤーエンコ・ヒョードルに新日のエース永田裕志が秒殺され、さらに小川直也もヒョードルにはあっさりと負けてしまった。このような事実の前には、凄みもくそもなかった。

さらにユセフ・トルコやミスター高橋などプロレス関係者による告発本が、追い討ちをかけた。ミスター高橋の『流血の魔術 最強の演技-全てのプロレスはショーである-』には、アンドレザ・ジャイントに猪木のボディスラムを受けさせるために、1箇月間酒場に連れて行って説得したなどという生々しいエピソードがあり、多くのプロレスファンたちを興醒めさせた。かくいう私も、この本をきっかけに、K1やプライドに関心を移していった。

こういったプロレス凋落傾向の中で、三沢光晴率いるノアが旗揚げした。ジャイアント馬場が亡くなってすぐ後のことである。このような理由から、私は、ノアの試合をほとんど見たことがない。こうしてノアは細々と興業を続けていたが、深夜の時間帯のプロレス中継まで打ち切りが決まった直後に、三沢は帰らぬ人となったのである。

三沢は2代目タイガーマスクであったが、私は劇画「タイガーマスク」にも夢中になった世代である。物語のタイガーマスク(伊達直人)はトラックに轢かれて命を失う。そして、意識が薄れゆく中で、自分がタイガーマスクであることを知られぬよう、覆面を川に流すのだ。伊達は、自分がかつて世話になった孤児院「ちびっこハウス」に援助をしていたが、同ハウスの寮母ルリ子は、タイガーマスクの正体が伊達直人であることに気づいていた。タイガーマスクの死を知って悲しむ子どもたちにルリ子は、星空を指差してタイガーマスクは星になったのだと語りかける。そして、夜空にタイガーマスクの星座が浮かびあがるシーンがラストだったように思う。

バックドロップでマットに叩きつられて幕を閉じた三沢光晴の人生は、ある意味劇画以上にドラマチックだったと言えるのかもしれない。

ところで、初代タイガーマスクは佐山聡だが、つい先日、「行列のできる法律相談」の北村弁護士の「私の会いたい人」というコーナーで、久しぶりにテレビに登場した。今は掣圏道掣圏真陰流という実践格闘技を創設し、その指導者になっている。テレビでは、「夢をこわしてはいけないから」と言って終始タイガーマスクの覆面を脱がなかったが、プロレスファンなら、佐山の素顔は誰でも知っている。ちょっと茶目っけぶりを発揮したのであろう。佐山もすでに50歳を過ぎており、あるいは老けた素顔をさらしたくなかったのかもしれない。

この番組以外で、しかも実に意外なところで佐山の名を目にしたことがある。それは、一水会のホームページである。一水会の主催の講演会の講師リストの中に、佐山の名前を発見したのだ。最初、同姓同名の別人かと思ったが、彼はれっきとした右翼活動家だったのである。

二人のタイガーマスクは、どちらも個性的で、波乱に満ちた人生を送っているようだ。

そしてこれは、タイガーマスクの産みの親である梶原一騎についても言える。先日、少年サンデー、マガジンの創刊50周年企画でドラマが放送されたが、その中に梶原一騎が登場したので、懐かしくなって斎藤貴男の「梶原一騎伝 夕やけを見ていた男」を読んだ。晩年には暴力団との関係が噂され、自らも暴力事件を引き起こして逮捕、そして刑務所を出てから大病に倒れ、50歳の若さで他界する。梶原一騎の人生もまた波乱に満ちたものであった。

虎は自然界最強の動物であり、中国・韓国では荒ぶる自然の象徴として、神の座に祭り上げられている。虎と縁を結んだ人々もまた、平凡な生き方を許されていなかったのかもしれない。

2009年6月15日 (月)

祝祭としての刑罰

私が日本の刑事制度についていつも感じるのは、言いようのない陰湿さであり、ホンネとタテマエの乖離である。

憲法36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対に禁ずる」と明記されているにもかかわらず、志布志事件で明らかなように、取り調べ中に心理的拷問が行われていた。この事件で報道された行き過ぎた捜査は、直接的暴力以上に人の心に深い傷を与えるものだ。

また、「疑わしきは被告人の利益に」などと言いつつ、周防正行監督の映画「それでもボクはやっていない」を見ればわかるように、大した合理的理由もなく、有罪判決が次々に出されていく。「行列のできる法律相談」の中で、北村弁護士は、痴漢の罪を着せられそうになった時の対処法として、「全速力でその場から逃げ去る」と答えている。つまり、専門家の目から見ても、警察や検察や裁判所は信用できないということだ。また、同番組で以前丸山弁護士は、裁判官と検察官はいわばチームのようなもので、いつも同じ顔ぶれで、ベルトコンベアーの流れ作業のように事件を処理していると述べていた。

また、憲法76条には裁判官の独立が高らかに謳われているが、裁判官の人事権は、最高裁判所、実際には法務官僚が握っている。「狂った裁判官」の著者で、日本で二例しかない再任拒否をされた元横浜地裁判事の井上薫も、多くの裁判官が出世のことを考えながら判決を下していると述べている。

長沼ナイキ基地訴訟で自衛隊に違憲判決を下した福島重雄判事は、事件の翌年、東京地裁の手形担当に異動となり、停年時は家裁判事として退官している。こんな見え見えの懲罰人事がまかり通れば、己の良心に従って判決を下すことなどできっこないのだ。憲法で謳われた裁判官の独立性など、所詮絵に描いた餅にすぎない。なお、福島元判事は、この4月に事件を回顧した著書を出版している(「長沼事件平賀書簡 35年目の証言、自衛隊違憲判決」 日本評論社)

このような陰湿さは、刑罰においても言える。

多くの伝統社会において、刑罰には、祭りと似たような機能があったのではないか。衆目環視の中で刑を執行することは、共同体との関係性の回復といった側面もあったように思われる。江戸時代に行われていたという市中引き回しとかむち打ち等は、まさにそのようなものであったはずだ。故に、現代のようにただ密室に閉じ込めておくよりカラッとしており、見せしめの意味がある一方、社会復帰の点でも効果的であったのではないか。大勢の前で恥をかかせられた者に対しては、許しの感情が自ずと湧いてくるものだ。

中国では2007年まで公開処刑が行われていたというが、一方、社会の受入は日本より遥かにスムーズで、前科のある知事や経営者がたくさんいたという。日本とは異なり、獄中にいたという経歴が社会的にマイナス評価につながらないのだ。(王雲海「日本の刑罰は重いか軽いか」集英社新書)

人の犯した罪が、その社会の一定の許容範囲を越えた場合には、死刑が執行されねばならない。しかし、これに関しても密室で行われた方が人権に配慮されているなどとは、必ずしも言えないように思う。もしイエス・キリストが磔の刑に処せられなかったら、キリスト教の歴史は異なったものになっていたろう。ヨーロッパ社会は後年キリスト教を受容することになるので、その結果、権力と戦った聖者としてのイエス像が確立される。一方、石川五右衛門のように、純然たる悪党でも、処刑は人生の幕引きに花を添えるものである。もし石川五右衛門が現代に生きていたとしたら、密室の中で絞首刑にされるのと、大勢の前で釜茹でにされるのと、どちらを選んだであろうか。

現代ではプラバイバシーの保護が尊重されるあまり、何でもかんでも密室化することが善であり、人権に配慮することだと思われがちである。その結果、公開処刑という、癒しや関係性の回復、道徳教育、そして祝祭の機能を持つ場が一切否定されてしまったのである。公開処刑にはもちろん残虐で非人道的な面もあるが、本人の同意さえとれば、今日においてもこのような選択肢があってもよいと思う。もし麻原彰晃の意識がはっきりしていれば、真っ先にこのような道を選ぶべきだろう。

また、ガンも本人に告知するようになりつつあるが、死刑の執行日も死刑囚に早めに伝えるべきではなかろうか。いつ呼ばれるかわからぬ中で日々怯えているよりも、その方がよっぽどましだろう。そして、執行方法は一律に絞首刑だが、それも本人に選択させたらどうだろうか。L.ソンディのように、死の様式を無意識の根源的衝動と捉える心理学者もいる。死に方という人生最後の選択ぐらい、本人にさせてやるのが本当の意味で人道的なのではないか。これは何も公開刑のことばかり言っているのではない。もしこのような選択を与えたら、薬物死を望む者が多く出てくるのではないか。

現代の刑事制度は陰湿で、人間の生理とかけはなれたものになってしまっている。近代以前の制度から、もっと学ぶべきところがあるような気がするのだ。

2009年6月 9日 (火)

冤罪について

足利事件が新聞やテレビで連日報道され、強引な取り調べをした捜査当局や上告を棄却した裁判所に対する批判が高まっている。サンデープロジェクトでは、田原総一郎が何人かの裁判官を名指しで上げ、「こんなやつらは逮捕すべきだ」と語っていた。私も全く同感である。

冤罪というと、稀にしか起こらないことのように思われがちだが、交通事犯や軽犯罪を含めれば年間数千のオーダーで発生していると言われている(浜田寿美男「自白の心理」岩波新書)。まさに、明日は我が身なのだ。

 私は、昔から冤罪事件に関心があり、現在冤罪被害者を支援するグループにも所属している。しかい、こういった運動に係る人々はリベラルの傾向があり、同時に死刑制度にも反対である場合が多い。しかし、私は死刑制度は絶対に存置させるべきだと考えている。

 冤罪をなくすためには、取り調べの全面可視化が不可欠だが、同時に「疑わしきは罰せず」の理念を貫徹させなければならない。これは、グレーは白と見なすことであり、それは、犯罪を立証できなかった真犯人たちを大量に野に放つことを意味するのだ。このような問題があるからこそ、捜査当局は、多少の冤罪はやむをないと考えているのだろう。

 私はそれでも冤罪をなくすことを優先すべきだと考えるが、この場合取り得る方法は、一つしかないはずだ。すなわち、グレーは無罪放免にするが、黒については厳罰化しかつ見せしめにするというものである。、

 しかし、冤罪被害者支援グループの多くは、この辺に関しての認識がいま一つ甘いように思われてならない。だからこそ、死刑を廃止せよなどといった脳天気なことが言えるのだろう。大量の真犯人が野に放たれれば、その先に大量の被害者たちがいるのだ。彼らの傾向として市民性善説があると思われるが、私に言わせれば、市民の約2割が犯罪予備軍であり、1割が実際に悪事に手を染めている者たちである。

ちなみに、私はハローワークで紹介された会社が3社続けてアウトロー系企業だったことがある。そのうちの1社は企業舎弟であり、社長が広域暴力団の構成員で、後に逮捕された。

この経験によりアウトロー系企業の連中が何を考えているか、普通の人々より少しは知っているつもりだ。彼らの多くは経済犯や知能犯だが、こういった連中は間違いなく法律や刑罰を睨んで悪事を行っている。そして、やつらにとって問題なのは、法律に抵触するかどうかではない。もっと言えば逮捕されるかどうかですらないのだ。唯一恐れているのは、逮捕された後裁判で実刑判決をくらうことなのである。だから、その心配さえなければ、どんなことでもするのである。

ある社長は、占有屋のようなことをやっていたが、民法改正により規制が強化された途端、その仕事から手を引いてしまった。

アウトロー系企業にとって実刑判決をくらうことは、経済上のリスクなのである。リスクが低ければその行為を何度でも繰り返すし、高くなればその仕事から手を引く。故に、罰則を強化しなければ、やつらのやりたい放題の犯罪者天国になってしまうのだ。

グロバール化によって、この傾向にさらに拍車がかかる。犯罪という経済行為にとって刑罰がリスクであるということは、世界共通である。以前にも触れたが、中国では麻薬犯にはとりわけ厳しく運び屋をしただけでも死刑になる。ということは、麻薬取引を行う上で、中国はリスクが高いということになる。であれば、国境を越えリスクの低い日本で同じことをした方が、経済合理性にかなっているということになる。というわけで、グロバール化社会では、刑罰のぬるい国に犯罪が集中していくこととなる。人件費の安い海外に生産拠点が移り、産業が空洞化しつつある中、その一方で、犯罪が海外から流入してきたら、泣きっ面に蜂ではないか。

日本では、詐欺罪は立証しにくいためなかなか逮捕できず、刑務所は、万引きや無銭飲食で捕まった知的障害者やホームレスで溢れかえっている。こういう知的能力の劣った捕えやすい人々ばかりを有罪にして、本当の悪者を取り逃がしているのが、現在の刑事制度の実態なのだ。

これには法律の問題もあり、例えば、結婚詐欺など実際に婚姻届を提出して入籍してしまえば詐欺罪は成立しないため、この手口は何度でも使え、当然前科にもならない。

しかし、膨大な数に及ぶ詐欺を立証し有罪にすることは現実には不可能であろう。そのためには、大量に警察職員を増員し、莫大な予算を投入しなければならない。それは明らかに不経済だし、また、そのような警察国家にすることは健全ではない。だから、現実的には、一罰百戒の見せしめ的方法を取るしかないはずなのだが、日本の刑事制度はこれを否定している。見せしめは、何もそんな理不尽なことではなく、アメリカなどでも現に行われている。例えば、ネズミ捕りのように、犯罪類型、地域、期間を限定し、集中的に捜査を行うというような方法がとられている。そして、運悪く網にひっかかった犯人に対して、思いっきり重罪を科せば、当然抑止効果になる。「疑わしきは罰せず」の理念を貫くためには、このような刑事政策とセットで考えなければならないはずで、真剣に冤罪をなくしたいと考える者こそ、死刑存置派でなければならないのだ。

なぜなら、見せしめで一番絶大な効果を発揮するのは死刑だからである。私は、詐欺罪でも悪質なものについては、死刑にすべきだと考えている。

1985年豊田商事事件が起こった。地金を使った悪質商法により、被害者は高齢者を中心に数万人、被害総額は2000億円に及んだと言われている。会長の永野一男は逮捕当日、刺殺されている。

犯人は二人だったが、主犯格の飯田篤郎は、鉄工所経営者だった。刺殺した後飯田は、

「殺ってきた。犯人が俺や。警察呼べや。これで死んどらんかったら、またやったる。87歳のボケ老人騙しくさって、850万円もとったやつやからな。当然の報いじゃ」

そして、駆け付けた警察官に対して、

「法律は手ぬるい。わしがやらんかったら、他にやるものはおらん」

と言ったという。

その後、犯人の二人には、懲役10年と懲役8年の実刑が確定した。温情判決だった。

私は飯田のこの言葉に100パーセント共鳴する。永野のような極悪非道の犯罪者に対しては、たとえ人を殺してなくても死を与えることこそが、国家権力の使命なのだ。

永野の死後、豊田商事の残党たちは全国に散らばり、また、悪質商法を始めたという。

2009年6月 7日 (日)

殺人について

殺人に関しては、コリン・ウィルスンのような文学者の考察や事件記者のルポルタージュのようなものはあっても、本格的な学問研究はほとんどなく、まだ緒についたばかりと言えよう。これは、長い間この研究をタブー視する傾向があったからではないだろうか。同研究の先駆者である長谷川眞理子にしても、これをテーマに扱った単著はまだなく、翻訳を一冊手がけているだけである。(M・デイリー他『人が人を殺すとき―進化でその謎をとく―』新思索社)

長谷川の視点は、この問題に進化生物学の立場からアプローチするというもので、これは、殺人を動物における殺戮と同列に論じるということを意味する。

昔は、同種間における殺戮は存在しないと考えられていた。例えば、南極のペンギンの群れが海にさしかかると、一匹が海面に飛び込むという。もし海の中にペンギンの天敵であるアザラシなどがいれば、その一匹だけが犠牲になればすむからだ。これを利他的行動という。勝手な憶測だが、前期近代の村落社会において行われた人柱や人身御供なども、これと類した現象ではないか。

いずれにせよ、同種間での殺しあいはないというのが定説だった時代がかつてあり、ノーベル賞受賞者のコンラート・ローレンツなどは、『文明化した人間の八つの大罪』(新思索社)の中で、戦争や経済競争、環境破壊の存在しない動物社会を、あたかも楽園のようにとらえていた。しかし、この夢想は彼自身が重視した行動観察によって覆される。動物社会においては、人間とは比較にならぬほどの頻度で、同種間における殺戮が行われていたからだ。

例えば、新しくリーダーになったライオンの雄は、前リーダーの子どもを殺す。これは、子ライオンの死亡原因の23割にも達するという。このような行動は、己の遺伝子のみを増殖させていくという、利己的遺伝子の立場から考えれば容易に説明がつく。

日本でもかつては、戦に負けた武将の子どもたちは殺されたが、それはその子が成長して敵討をされないためであると言われ、平清盛は平治の乱で源義朝に勝利したが、その際頼朝や義経を殺さなかったことが、平家の滅亡につながった。しかし、このような武士の掟は、上記のようなライオンの行動と関連づけることも可能なのではないか(敵討を防げば、すなわち、自分の遺伝子を増やすことにもなる)。今でも、連れ子の女性と結婚した男性が、妻の前夫の子どもに対して虐待を加えたり、時には殺してしまうという事件が起きているが、この時の夫の心理の背後には、このような原理が隠れていたのかもしれない。

そして、動物行動に淵源する殺人は他にもあるであろう。それをもっと研究する必要があるのだ。

『人が人を殺すとき―進化でその謎をとく―』には、インドシナやパブアニューギニアで見られる「アモク」という興味深い文化現象のことが紹介されている。「アモク」の状態になった男性は、突然暴れだし周囲の者を無差別に殺害していく。これには健忘症が伴い、犯人は事件後自分がやったことを全く覚えていない。「アモク」にかかるのは35歳以下の男性で、何らかのコンプレックスを持っている場合が多いという。また、周囲に親戚がいる場合には、「アモク」は起こらない。

「アモク」は、日本で言えば狐憑きなどと類似した現象であろう。また、横溝正史の『八つ墓村』のモデルとなった津山事件(1938年)とも似ているかもしれない。この事件の犯人・都井睦雄は、犯行後自殺してしまうが、当時21歳であり、結核のため徴兵検査に不合格し、村八分のような扱いを受けていたという。また、昨年の秋葉事件との類似性も指摘できるかもしれない。

ところで、現代の刑法は、近代法である以上近代思想のパラダイムの中に位置づけられている。それを一言で言えば、ヒューマニズムということになる。この思想によれば、人間の本質は真・善・美であり、犯罪はこのような人間本来のあり方からの逸脱ということになる。それゆえに、改悛や更生・矯正が、刑事政策の主要な課題となっていくのであろう。人間本来の姿に戻りなさいというわけだ。

しかし、先ほどのライオンの例のように、これは人間で言えば嬰児殺しに当たるが、そこには真・善・美もくそもない。ただ遺伝子の命令に従って、己の遺伝子を淡々と増やしているにすぎない。

だから、こういった内心の自由に踏む込むような刑事制度は、改めた方がいい。もちろん、すべての人間が利己的な遺伝子の命令に従ったとしたら、社会は成り立たなくなるであろうから、調整機能としての掟は必要である。しかし、それは人間的本質から逸脱したことに対する制裁ではなく、単に社会の行動規範から逸脱したことに対する制裁であれば十分であろう。この場合、掟は厳しければ厳しいほどよいのである。

前回触れた荒川沖駅通り魔殺人にしてもそうだが、最近は、犯人が裁判で謝罪しないケースが増えているような気がするが、これはある意味でよい傾向だと思う。その方が犯罪の本質を浮かび上がらせることができるからだ。また、心にもない口先だけの謝罪によって、被害者感情が癒されるとも思えない。被害者感情を慰藉するための唯一の方法は、犯人に対して可能なかぎり厳しい刑罰を与えることしかありえないと思う。復讐もまた、動物界と共通の基底をもつ、本能の一型に他ならないと考えるからだ。

2009年6月 5日 (金)

荒川沖駅通り魔殺人事件について

荒川沖駅通り魔殺人事件の金川真大容疑者の公判における発言が報道された。

「人を殺すのは、蚊を殺すのと同じ」

「ライオンがキリンを殺すようなもの」

「人を殺したのは死刑になるため。この方が自殺するより手っ取り早い」 etc.

元検事で弁護士の河上和雄氏は、この異常で理解不能な発言は、刑事責任を免れるために弁護側が画策した法廷戦略とコメントしていた。

しかし、これが異常で理解不能な発言と果たして言えるだろうか。特に三番目の発言など理解しやすいし、彼の心のうちの素直な表明と言えなくもない。

この前の「爆問学問」(NHK)で長谷川眞理子氏が出演し、進化生物学の立場から殺人について語ってくれた。まだ研究途上の学問ということもあって、明確な結論は出なかったが、興味深い内容であった。まず統計的に見て、殺人は20代の男性に最も多く、これは動物の雄における闘争と無縁ではないことを示唆していると述べていた。また、統計的に見て、現代の殺人事件の発生率は、昔に比べ5分の1ぐらいに減少しているとのことであった。これは、通常の我々の感覚とは全く逆行するものであった。

この減少をどう捉えるかであるが、昔に比べて20代の若者の道徳意識が向上しているからだとはとても思えない。経済的に豊かになったことも要因だろうが、それに加え、現代社会には本能の暴走を吸収する様々な手段があるからだとは考えられないだろうか。つまり、青少年に悪影響を与えると見なされがちのコミック、映画、ゲーム等が、殺人衝動の代償の役割を果たしている可能性も、あながち否定できないのである。

また、長谷川氏は、このような性格を持つ殺人事件が、社会から消えてなくなることはけしてありえないとも指摘していた。

長谷川氏の主張を、私なりに解釈すれば、殺人は本能の次元に根をもつ行動である、ということになる。金川容疑者の「ライオンがキリンを殺すようなもの」という言葉は、それを象徴している。考え方によっては、殺人を抑止する道徳や法律の方が、社会を維持させるための表層上のシステムと言えなくもない。

だとしたら、本能という深い次元から突き動かされた行動を、人は心から改悛するものだろうか? 従来、貧困や不遇によって人は殺人の罪を犯すのだという見方が一般的であったが、これは根本的に誤っているのではなかろうか。ゆえに私は、殺人に対して教育刑的などといったぬるい発想は、すべて打ち捨てるべきだと考えている。

本件においても、金川容疑者は死を望んでおり、死刑になるために人を殺したのだとさえ言っている。遺族としても、全く反省していない容疑者をけして許さないだろう。誰も望んでないことを、何故国家権力が割って入ろうとするのだろうか。これを、世間の言葉では、余計なおせっかいと言うのである。さらに、前回述べたように残虐な刑を執行すれば、すべての人々の満足度は最大限に達するのである。

2009年6月 3日 (水)

公開処刑を復活せよ

憲法改正の議論がかまびすしくなっている。私も、戦後アメリカによって作られた憲法にはそろそろ手を入れた方がよいと思っている。しかし、どこをどのように改正すればよいかという点になるとさっぱり意見がまとまらず、そのことが改正の実現を困難にしている。大方の関心は9条にあるようだが、それすら対立する議論が収束する気配は見られない。

実は私にとって関心があるのは9条ではない。それどころか、民主憲法の美点として、恐らく誰一人疑ったことのないある条文が、気にくわなくて仕方がないのである。それは、憲法36条である。すなわち、

「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」

である。

正確に言うと、拷問には絶対に反対である。このような条文があるにも関わらず、現実には拷問に近い取り調べは行われており、そのことが冤罪の原因になっているのだ。私は、冤罪は絶対になくさなくてはならないと思っている。

しかし、残虐な刑罰についてはどうだろうか。刑罰にはそもそも見せしめ的な要素がなくてはならないはずで、近代以前においてはそれが当たり前だった。

例えば、江戸時代、犯罪を犯した者に対しては、市中引き回しという刑罰が与えられていた。これは、日本人にとって最もこたえる恥を罰として与えるものだ。そしてその結果、江戸の治安は保たれていたのではなかろうか。江戸の人々の道徳意識は現代の日本人より遥かに高かったと推測される。幕末に横浜に来た外国人が、道端に落ちていた財布を何日間も誰も拾おうとしないので感銘を受けたというエピソードが残っているくらいだ。当時江戸の人口は約100万人だったが、同心や与力の数は北町奉行と南町奉行を合わせても100人以下だった。ちなみに現在の警視庁の職員数は約45000人である。今より遥かに効率的な警察組織が実現されていたのである。

また、戦で勝った方が敵方の武将をさらし首にするという行為は、武士の規範上必ず行われなければならなかった。足利尊氏は楠正成のことを尊敬していたので、湊川の戦で敗れた正成の首を泣く泣くさらしものにしたと伝えられている。これは明治以降も行われており、佐賀の乱で敗れた江藤新平もさらし首に処せられた。

市中引き回しやさらし首の刑は、近代以前の社会では、日本だけではなく世界中の多くのところで行われていたものと思われる。それは、このような刑罰が本能に即していたからではなかろうか。これを見た民衆は、悪いことをしたり体制に反逆するとこうなるのだということを、肌で実感したことであろう。以前テレビで作家の宮城谷昌光が、中国の権力者の中で民衆から絶大な人気を博するのは、悪い役人を処刑した人物であり、曹操などがその1人だと言っていた。

刑罰の目的は、教育刑などという生ぬるいものではなく、犯罪を抑止すると刑事政策に基づくものでなければならない。そして、刑罰に見せしめ的要素が必要だということは、他国では公然と認められており、日本だけがガラパゴス化しているのだ。中国でもアメリカでもそうだ。中国など、アヘン戦争のトラウマがあるため、麻薬に対しては特に厳しく、運び屋をしただけでも死刑に処せられる。その際、刑が決まった被告人に対して、刑務官は非常に優しく、「オマエはたまたま運が悪かっただけだ」と慰めるのだという。

一方、日本では、刑罰は軽いが、その代わり社会によって制裁がなされている。この間の草薙剛などがそのいい例であろう。有名人の場合、マスコミがよってたかって、市中引き回しなど比較にならないくらいの恥辱を与えるのだ。

今日の社会は、歴史上頽廃の極みに達していると思われる。それは、罰が正常に機能しなくなったからだと、私は考えている。宗教が影響力を失ったため、死後の罰を恐れる人は少なくなってしまった。また、刑事政策と言えば、本当に悪いやつや知能犯はのさばる一方で、獄中にいる受刑者の約2割が知的障害者であり、約半数がIQ90以下の人々である。彼らの多くは食事や居場所を求めて軽犯罪を犯したのであり、本来なら福祉施設に入るべき人々なのだ。

悪人には厳罰を与えなければならないし、弱い人は守られなければならないはずだが、今はその逆が行われている。もっと本能に即した刑罰こそが実施されるべきなのだ。

2009年5月31日 (日)

ホームレスという生き方

今日の「サンデージャポン」で、ブリトニー浜田の特集があった。ホームレスギャル漫画家ということで、前から気になっていたのだが、今回、漫画家としても、藤子不二雄Aやちばてつやからも認められる程活躍しているということを知った。もちろん彼女の漫画は読んだことがないので、作品に対する批評は差し控えるが、私が興味を惹かれたのはその点ではない。すなわち、漫画家としてデビューして3年経ち、ビッグコミックスピリッツに連載を持ち、小学館から単行本(「パギャル」)を出しているということは、すでにそれなりの収入があるはずだが、それにもかかわらず、今でもネカフェ(ネットカフェ)生活を続けているということだ。現在は不況のため、不動産価格は値下がりしており、家賃が3万円ぐらいのアパートなど探そうと思えばいくらでもあり、彼女の活躍ぶりからして、それが払えないとは到底思えない。つまり、彼女のホームレス生活は、経済的理由からではなく、そういった生き方そのものを望んでいたからではないかと考えられる。

もう一つ身近な例がある。私の職場付近でホームレスの人々が数人生活しており、ときどき彼らと話すことがある。先日その1人が、面白い話を聞かせてくれた。彼の場合、今でも昼間働いており、一時は鳶の親方もしていたこともあったそうだ。しかし、そういう羽振りの良い時期を含めて、ずっと一貫してホームレス生活を続けてきた。昔、300万円もの大金が転がり込んできたことがあり、その時は半年間ほど仕事を休み、全国を豪遊して全部つかってしまったそうだ。私は「そんなお金があったら、どこかアパートを借りようとは考えなかったんですか?」と聞いてみたが、「いや」とキッパリ否定されたので、それ以上尋ねなかった。彼の場合も、定住を拒絶する衝動があったに相違ない。

去年の暮頃から、製造業不況による派遣切りのため、住む場所を失った人々が大量に出現したことが社会問題となり、ホームレス化した派遣労働者に対する支援活動も活発に行われるようになった。私は、こういった運動に携わる人々の努力に対しては敬意を表するが、一つだけ気に入らない点がある。それは、家を失った派遣労働者はあくまで救済の対象であり、ホームレスという生き方そのものを否定してしまっている点である。

私は何も屁理屈をこじつけようとしているのではなく、日本歴史を紐解けば、定住を拒否する人々は漂泊民と言われ、長い間文化の担い手であり続けたのだ。漂泊民には、芸能、技術、金融、宗教など携わる者が多く、閉鎖された村社会に情報や娯楽、有益な品々を運び込み、まさに社会の血液としての役割を果たしてきた。中世は彼らが最も活躍した時代であり、これはヨーロッパ社会においても同様である。

それが、江戸時代には、無宿、渡世として社会から排斥された存在にまで貶められてしまうようになる。明治になってからは、法律においても日本国民としての地位を失うことになる。民法22条に住所に関する規定があり、30条の失踪宣告により、7年間行方不明の者は死亡と同じ扱いを受ける。

今までこのことに対して疑問をさしはさむ人はあまりいなかったようだが、定住していない限り日本国民として認められないという思想は、どこか間違っているのではなかろうか。現在は、生体認証やDNA鑑定など、住民票などより遥かに高い精度で、本人を確認する技術的手段があるし、携帯電話により本人に直接連絡をとることも可能である。そのような方法を用いれば、非定住者が納税したり、本人にのみ個人情報が記載された書類を交付することも十分可能なはずである。現代の技術をもってすれば、非定住者をも社会の一員として認めるシステムを構築することができるのだ。

網野義彦によれば、漂泊民は、定住民に対抗する一大勢力であり、高度な文明の担い手であり、交易や金融の発祥も、彼らの存在抜きには語れない。故に、漂泊民は、誇り高き人々だったのであり、日本人には今もそのDNAがあるはずである。だからこそ、寅さんのような存在に限りない郷愁を覚えるのである。そして、ブリトニー浜田たちをホームレス生活へと駆り立てている衝動も、このDNAのしわざだと思っている。極論かもしれないが、私は、漂泊民がいなくなってから、日本社会の衰退が始まったのではないかとさえ考えている。

柳田國男の「遠野物語」の冒頭に「平地民をして震撼せしめよ」という有名なくだりがある。この場合平地民とは、定住民のことである。我々は、このような思想をそろそろ再考する時期にさしかかってきているのではなかろうか。

2009年4月13日 (月)

鳩山邦夫、東京中央郵便局建て替え反対の真相

 鳩山邦夫が、東京中央郵便局が重要文化財だと言って、建て替えに反対していることが波紋を呼んでいる。わたしは、以前あそこをしょっちゅう利用していたが、貴重な文化財などという印象を受けたことは一度もない。鳩山は中央郵便局を取り壊すことは朱鷺を焼き鳥にするようなものだと語ったそうだが、ある政治評論家が、「カラスの間違いじゃないか」と言っていたのを聞いて、喝采した口だ。

 東京中央郵便局に文化的価値があるかどうかはともかくとして、この問題の水面下では驚くべき事態が潜行しているという噂がある。東京中央郵便局の建物は、実は1メートル敷地外の道路にはみ出して建っているそうだ。この再開発には、三菱商事が噛んでいるが、引き屋を使って、建物全体を1メートルずらし、東京中央郵便局の建物を敷地内に戻すようにとの指示が、鳩山から三菱商事に出ている。その際、引き屋に100億という法外な資金が支払われ、その一部が鳩山のところに流れることになっているらしい。

 鳩山が、重要文化財などと言ってゴネている背景には、このような魂胆があるというのだ。要は、取り壊して新しい建物を建てると、引き屋を使うことができず、その結果自分のポケットにも入ってこないので、貴重な文化財だから残さなければらないなどと言っているのだということだ。あまりの強欲ぶりに、三菱商事の社員たちも、あんぐり口を開けているらしい。

 鳩山は金持ちのボンボンのはずなのに、なぜそのような巨額の資金がいるのかといえば、それは麻生の後の首相の座をねらっており、そのために金が必要だということらしい。もしこの話が真実だとすれば、小沢一郎などよりも遙かに悪質である。二次情報なので、裏はとっていないが、かなり信頼性ある筋からの情報なので、心ある記者はぜひおいかけほしい。

 

2008年9月15日 (月)

賎民としてのオタク

 秋葉事件がサンデープロジェクトで取り上げられたことは以前に述べたが、あの時のコメンテーターの一人だった東浩紀が、この事件について雑誌でも発言している。どうやら今日のオタク論の第一人者と言うことのようである。そこで、彼の著書『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を読んでみることにした。この書名から内容を想像できる人は皆無に近いと思われるが、この本は隅から隅までオタクについて書かれている。

 頭の良い人間は、よくもまぁここまで理屈をこねくりまわすものだなと感心した次第だが、正直言って今ひとつピンと来なかった。本書の内容の骨格を拾い上げれば、要するに、オタクという存在は世界的な思想運動の流れの中で捉えるべきものであり、日本はオタク文化の発信源と言うよりは、世界に先駆けていちはやくこの思想的ステージに辿り着いたということになる。彼はその論拠として、アレクサンドル・コジェーブが今日の状況を予見していたこと挙げ、そのことをもって、オタクが日本固有の事態ではなく、世界史的な出来事であると言う。これだけ言うと、「アホか」と思う人もいるかもしれないが、膨大な知見に基づいて説得されると、一笑に付したくなるような議論でももっともらしく聞こえてくるものである。

東によれば、ポストモダンとは日本においては70年代以降の全般的状況のことをさし、思想におけるポストモダニズムとは異なると前置きしている。しかし、ポストモダニズムはポストモダンに含まれるとも述べている。また、ポストモダンは戦前の京都学派の近代の超克論とも重なると言うが、近代の超克とは、ヨーロッパ合理主義そのものを乗り越えることを意味するのだから、そのような壮大なパラダイムチェンジが70年代以降進行したのかという疑問が生じる。しかし、本書のテーマはあくまでオタクであり、ポストモダンについては別に論じているということなので、これ以上の言及は避ける。

 ところで、何ゆえオタクが世界史的問題か言えば、それは「大きな物語」の喪失と関係がある。これを象徴する出来事として、日本では1972年の連合赤軍事件を挙げ、海外では1989年のベルリンの壁の崩壊を挙げている。このため、東の言う「大きな物語」にマルクス主義が含まれていることは確かだが、それ以外の近代思想や日本における戦後復興や高度経済成長なども含まれるのかについてはよくわからない。そして、現実世界における「大きな物語」が消滅した結果、その代用品として、アニメやゲームなどのサブカルチャーの世界において、壮大な物語が構築されるようになったというのだ。その代表格がガンダムであり、そして、バーチャルな物語をリアルな世界にまで持ち込もうとした結果起こったのがオウム事件だったというわけである。今から考えれば、共産主義の理想社会もバーチャルな物語と言えなくもないので、共産主義者とオウム信者との差は、それほど大きくないのかもしれない。

100パーセント賛同するわけはではないが、東の主張は一面の真実を言い当てていると思う。いつの頃からかはわからないが、テレビなどで、楽曲や映画作品に対して「世界観」という言葉がよく使われるようになった。私の学生の頃は、「世界観」と言えば高尚な用語で、しかも、マルクス主義の世界観とかアボリジーニの世界観などというように実在の対象に対して使われ、現実と無縁なものに対して用いられることはなかった。この時の「世界観」という言葉は、東の言う「物語」と対応しており、テレビでこの言葉が頻繁に出てくるということは、バーチャルな世界とリアルな世界との境目が曖昧になりつつある状況を示唆しているのかもしれない。

 話を先に進めよう。90年代後半に入ると、ガンダムのような精密で整合性のある世界観はそれほど重視されなくなり、物語の中の断片的要素、つまり「小さな物語」に関心が向けられていくようになる。その代表格がエヴァンゲリオンであり、同様の傾向をもつ作品が多く作りだされた。さらに、デジタル技術により正確なコピーが可能になったことにより、原作のキャラクターに各人各様の創意工夫を加えた作品が、インターネット上に流出するようになる。オタクたちは、自分たちのキャラクター重視の傾向を、「キャラ萌え」と呼び、彼らの関心は、作品世界にではなく、個々のキャラクターのデザインや設定に対して注がれていくようになる。そして、これが今日、秋葉原を中心に隆盛を極めていることは言うまでもない。

 東の議論はさらに展開するが、この辺で打ち切ることとする。ところで、本書の表題でもありオタクの特徴を示すとされる「動物化」について、一言だけ触れておきたい。ここで言う「動物」とは「人間」に対する概念である。性愛において、人間は自分の恋人に着飾らせたりライバルから略奪したりと、本能から独立した様々な執着をもつようになる。これは、複雑な心理を背景にした、社会的存在としての人間の「欲望」に他ならない。それに比べて、動物は発情期に交尾をすればそれで満足しておしまいと言うように、「欲求」に基づいて行動する。秋葉原の萌え系オタクたちは、恋人との複雑な心理的かけひきには興味を示さず、単なる欲求処理としての性行動をとる。これと類似しているのがコギャルであり、彼女たちは自分の肉体を収入を得るための手段として即物的に捉え、何ら後ろ髪引かれることもなく援助交際などに走る。

 東によれば、オタクは世界的な思想運動の結果誕生したものなので、コギャルの生態も同様の文脈で捉えうるということになろう。

しかし、コギャルについては、もっと簡単な説明ができよう。すなわち、フリーセックスの伝統は日本文化の中にもあった、ということである。戦前まで姦通罪のあった日本には、儒教文化に支えられた厳しい性道徳があった言う人がいるかもしれないが、必ずしもそうではない。例えば、ルイス・フロイスは、彼の著した「日本史」の中で日本の女性は西洋の女性に比べ貞操観念がないと言って嘆いている。また、田中優子は、NHKの番組の中で、江戸の「恋」とは遊郭における性愛を中心とした男女関係のことであり、夫婦はお家存続のためのものであり、したがって、江戸時代において「愛」という概念は存在しなかったと述べている(視聴したものなので不正確かも知れない。詳しくは、田中優子著『江戸の恋』参照)。また、赤松啓介の民俗学研究によれば、農村社会においても、夜這いが制度化されていたという。重労働が多く楽しみの少なかった農村社会においては、夜這いという形でフリーセックスが一般に行われていたのである。

赤松(1909~2000)は、講演会である農村の老婆の言葉を次のように紹介した。

「今の若い娘さんは、1本の○○○しか知らないで可哀想じゃ。ワシらの頃は、太いの細いのいっぱい知っちょった」

これなど、コギャルが年老いた時に言いそうな台詞ではないか。ちなみに、赤松の世代から考えて、この場合の「今の若い娘さん」とは戦前の婦人たちのことであろう。このように日本の社会とは、時間軸や空間軸を変えることによって異なった相貌を見せてくるので、単一に語ろうとするのは危険である。そして、今日常識とされている恋愛の方が、近代化に伴って混入してきた異物なのであり、コギャルのような生態は、突然変異でも何でもないのだ。

さて、話をオタクに戻そう。

東の議論の中で、まず異和感を覚えるのは、十把一からげにオタクを捉えようとしている点である。浅羽通明は、中森明夫がこの命名をした直後から(1983年頃)、オタクについて論じているが、彼の結論は、オタクとは知識人の今日的謂いであるというものであった。つまり、知識人とは、例えば西洋の場合、ギリシャ・ローマの古典的教養と言ったように共通の知の基盤があったが、情報化社会によって総情報量や飛躍的に増大した結果、このような共通知(すなわち、教養)をもつだけの余裕を失い、限られた領域の知の獲得に邁進するようになった。そのため、日常会話以外の共通言語が奪われていき、共通の知の領域をもつ者同士のみが群れ、交流するようになった。それが、マニアでありオタクなのである。やや自分の言葉で要約しすぎたきらいが、私はかつて浅羽が主宰するサークルに属していたことがあり、彼から直接話を聞き、このように解釈してきた。

そして、彼の主宰するサークルには、一風変わったオタク系の若者たちが集まっていた。しかし、彼らはいわゆる「思想オタク」という人々であり、今日のアキバ系の若者とは全く人種が異なる。東が言う、「大きな物語」の喪失後サブカルチャーの世界観を代用したという話は、このような「思想オタク」に関してならまだしもわかるが、アキバ系をそのように解釈するにはちょっと無理があるのではないか。もしアキバ系の若者が戦前に生まれていたとしたら、共産党員として地下活動をしていたなどという話は、ちょっと想像がつかないからだ。

そして、何より東の議論で一番欠落していると思われるのは、オタクが賎視の対象であるという事実への言及が、全く見られないことだ。

今日、オタク系と思われるビル・ゲイツが世界一の金持ちとなり、オタクに対する社会的評価は相対的に高まってきている。とりわけ日本においては、基幹産業が低迷する中、唯一気をはいているのはアニメやゲーム産業であり、オタク文化は日本経済にとって救世主となりつつある。しかし、そのような貢献度に比べて、オタクの社会的地位はいまだに低く、あまりパッとしないと言えるのではないか。最近は、中川翔子や栗山千明などのように、アキバ系であることを公然と語るタレントも増えてきたが、どちらも女性であり、男性でイケメン系のタレントがアキバ系を語れる状況はまだ生まれてないように思える。これほど活躍しているのにも関わらず、オタクが十分に市民権を得ていていないことの背景には、いったいどのような事情が隠されているのだろうか。

まず、「オタクはキモイ」と賎視する主体は女性であろう、という点を強調しておきたい。だから先ほどのタレントのように、女性の場合、賎視感情はそれほど生まれてこないのである。この点に関して、オタクが話題になりはじめた当初、アメリカのある女性研究者がこう指摘している。すなわち、オタクの問題点は性欲を生身の人間に対してではなく、物に対して向けてしまうことにある(森岡正博の発言 彼女の名前・専門分野については失念)。この辺の議論は、先ほど紹介した東の「動物化」と重なってくる。つまり、人間関係上面倒くさい欲望へのモチベーションを持たぬオタクたちにとって、一番効率的な欲求処理方法は、当然のことながら自慰である。その場合、実在する女性は、全く相手にされないことになる。

要するに、オタクの本質的な特徴の中には、人類の存続に関わる生殖、再生産に対して消極的ないし無関心という傾向が含まれているのだ。これは、直接の当事者である女性にとってはきわめて不愉快な話であり、そのことが「キモイ」という感情をもたらしているのではないだろうか。そして、このような傾向に対する賎視は、世界中に普遍的に存在し、例えば同性愛者や性的不能者に対する差別についても同様のことが言える。その意味では、オタクと対関係にあるのは、過剰な性衝動をもつコギャルではなく、むしろフェミニストではないかという気がする。すべてではないが、過激なフェミニズムの中には、婚姻制度はもとより、生殖・再生産そのものを拒否する一派がある。そして、このような差別感情は伝統的社会ほど根深く、先進国や都市部ほど緩和されていく傾向があるように思う。例えば、フェミニズムに対する批判勢力は、共和党の支持母体でもある南部のカトリック信者たちであり、ヒラリー・クリントンは大統領選を戦うためには、フェミニストであることを自ら否定しなければならなかった。また、以前、テレビの討論番組でペナン出身のタレント、ゾマホンが、ホモを激しく非難していたが、その理由は、ホモは子どもを作れないことにあった。伝統的社会の維持には、家族制度の存続が不可欠であり、それを少しでも破壊する要素をもつ者に対しては、厳しく攻撃の矢が浴びせかけられるのである。

ところで、網野義彦や阿部謹也の中世賎民の研究によれば、日本でもヨーロッパでも、賎民の中には技術者集団が含まれている。技術者の根源的傾向の中に、性欲の対象を人ではなく物に向けるということがあるかもしれず、もしかしたらそれが、洋の東西を越えて、技術者が賎視の対象となった理由なのかもしれない。また、網野義彦によれば、賎民である漂泊民などは異類異形の者などとも呼ばれ、衣服などが一般民衆たちとは明らかに異なっていた。秋葉原をリュックサックとダサいファッションで闊歩する若者たちは、まさに現代版異類異形の者と言えるのかもしれない。

今日、オタク文化は日本経済の救世主とも見なされるようになり、その結果、オタクを白眼視する傾向は少なくなっているのかもしれない。しかし、それは彼らの才能がオタクであることを補ってあまりある場合のことであり、オタク自体はやはり負の烙印であることに変わりはない。先ほども言ったように、男性のイケメン・タレントの中にオタクはほとんどおらず、有名人オタクの岡田斗司夫や森永卓郎などの場合、才能や経済力によって、オタクのマイナス部分が相殺されているのであろう。

そして、オタクであり、派遣労働者であった場合はどうか。それが、秋葉事件の加藤容疑者である。彼が携帯サイトに書きこんだ「モテナイ」という記述は被害妄想などではけしてなく、才能も経済力もないゲームオタクが、女性から相手にされることはないという客観的な自己認識に他ならない。そして、マイナス要因が重なることによって、負の相乗作用が起こり、追いつめられていったことは容易に想像できるのだ。

東が指摘したように、オタクの表層的形態に関しては、思想史的なものが確かに関与していたのかもしれない。しかし、オタクは恐らく遥か昔から世界中におり、差別され続けてきた存在のだ。賎視されたことにも根深い理由があり、その感情は、一朝一夕に消えてなくなるものではない。ゆえに、日本経済を支えているオタクがもてはやされる一方、その波に乗れぬオタクが賎視されるという状況は今後も続いていくことだろう。そして、負の烙印を相殺するだけの能力のない、ごく普通のオタクたちは、格差社会の最底辺部へと押しやられていくことになるのだ。

2008年8月29日 (金)

企業内間接殺人

昨年の自殺者の数は3万3,093人で、平成10年以来10年間連続3万人を越えたことになる。自殺者の数は平成9年と10年を境に急激に増加したが、それ以前は2万人台半ばをずっと推移してきた。ちなみに、男女比で言うと、平成15年の統計では、男の23,396人に対して、女は8,713で、男性の自殺者数は女性の約2.6倍となっている。

また、国際比較で言うと、日本の自殺率は世界で第9番目となる。上位は1位のリトアニアを初めとして旧共産主義圏の国々に多いが、先進国では日本が断トツである。例えば、フランスは19位、米国は43位(日本の約半分)、英国は63位(日本の約3分の1)である。上位の国々の多くが貧困や政情不安などの問題を抱えているのに対し、経済的に豊かで政治的にも安定している日本においてこれだけの自殺者を招いているというのは、やはり異常な事態と言えよう。

ところで、自殺の原因に関する詳しい調査が発表された。これは、NPO法人自殺対策支援センターライフリンクが行ったもので、「自殺実態白書」としてこのほど公表された。この白書は、遺族1000人の対する聞き込み調査をもとに作成されたもので、日本における自殺の実態を把握するための、最新かつ最も詳細な調査報告書であると言えよう。ライフリンクは、民間有志のグループで、東京大学経済学部のプロジェクトチーム、弁護士、精神科医、一般ボランティアなどによって構成されている。この団体の性格については現段階では不明だが、1000人の遺族に対して聞き込み調査を行うためには、個人情報の入手が不可欠であるので、政府と何らかの協力関係をもっているものと推測される。

しかし本来、このような調査は、一民間グループに任せるのではなく、厚生労働省なり警察庁なり、行政が率先して行い、白書として公表するべき性質のものではなかろうか。また、平成10年に急増したのなら、もっと可及的速やかに実施されてしかるべきであった。民間のNPOが動き出すまで、国による本格的な調査が何も行われなかったというのでは、この問題に対する姿勢を問われても仕方がない。2006年に成立した自殺対策基本法には、「国及び地方公共団体は、自殺の防止に関し、調査研究を推進し、並びに情報の収集、整理、分類及び提供を行うものとする」とある(第11条)

さて、その内容についてだが、自殺原因・動機を特定できたものの内訳は、「健康問題」が44%。「経済生活問題」が22%、「家族問題」が11%、「勤務問題」が7%、「男女問題」が3%、「学校問題」が1%、その他、となっている。そして、「自殺実態白書」では、これらの要因を地域別に分類した膨大な統計調査が行われている。

今回の調査で明らかになったのは、自殺は一つの要因によって引き起こされるのではなく、様々な要素が複合的に絡み合いながら発生するといった自殺のメカニズムである。例えば、自殺要因で一番比率の高い因子は「健康問題」であるが、そのうち約半分がうつ病である。しかしうつ病は、自殺に至るプロセスの最終段階と言ってもよく、それまでに、事業不振、過労、職場の人間関係、身体疾患などいった問題を抱えていたケースが多い。次に多いのは「経済生活問題」であり、そのうちの約半数を借金問題が占めている。これについても同様で、それに至るまで経緯には複数の要因が関与している。

中でも注目すべきは職場要因であり、30代の働き盛りに自殺者が増えていることからも、この要因の重要性がうかがえる。これに関しては、正社員にあっては労働負荷、非正規社員にあっては不安定雇用などの問題が一般に指摘されているが、一筋縄では行かないことは他の類型と同じである。

すでに述べたように、この白書では、市町村ごとに詳細な調査が行なわれており、それがこの資料の大半を占めていると言っても過言ではない。大変な労力が費やされたことは疑いもないが、このような分類に果たしてどれくらい意味があったのか、今一つぴんと来ないというのが正直な感想である。

例えば、自殺者が一番多いのは秋田県で、1~10位までの6県は東北・北陸などの寒冷地が多い。これは、自殺率の高い旧共産圏の諸国にも緯度の高い地域が多いこととも符合し、気候条件との関連性を示唆していると言えなくもない。日照時間と自殺率の関係については、この白書では否定的だが、例えば、ラテン気質は陽気だと言うのは洋の東西を越えた常識と言ってもよく、その逆も真なら、日照時間とうつ状態があながち無関係であるとも言いきれまい。そして、うつ症状が自殺の引き金になることはすでに証明済みなので、三段論法式に言えば、日照時間の短い北方地域において自殺率が高まるという仮説には、全く根拠がないとも言いきれない。

しかし、たとえこのような事実が証明されたとしても、自殺対策と直接には結びつきにくい。富裕層には転地療法が可能であっても、ほとんどの人々にとって、自殺リスクが高いからという理由で移住するという選択肢はありえないからだ。したがって、このような地域ごとに詳細な分析を加えたことの目的が、今一つよくわからない。もちろん、自治体の努力によって自殺率が改善されたかを評価するためには、このような調査が有益だろう。しかしそれは経年的変化を見ることによって明らかになるのであって、このような単年度の調査からそれを読み取ることは不可能である。

私見を言わせてもらえれば、自殺防止と言った問題に関しては、単に客観的データーを集めるのではなく、自殺対策と直結する問題を重点的に取り上げ、掘り下げていくべきではないかと考える。

このような観点に立った場合、まず自殺の原因が、内因的なものであるか外因的なものであるかで区別することが大切である。外因とは環境要因のことを指し、内因とはそれ以外の、個人の内面的問題に起因する要素が大きい場合のことを指す。そしてさらに、外因的自殺のうち、加害者のある自殺とそうでない自殺とを明確に線引きすべきである。

自殺が内因的であるか外因的であるかについては微妙な問題で、それこそ聞き込み調査などの資料に基づき、ケースごとに具体的に判別していくより他なかろう。

例えば、有名なデュルケムの「自殺論」によれば、都市における孤立感やアノミー(社会規範の崩壊)が自殺の原因になりうることが示唆されているが、このような自殺に関しては、とりあえず内的要因として分類したい。また、負債による自殺でも、少額の借金で、しかも1回の督促も受けないうちに死んでしまうケースがあるが、これについても同様である。統合失調症などの場合は、もちろん内因的自殺である。

私が、外因的自殺と考えるのは、通常の人でも、耐えがたいほどの苦痛を受け、自ら命を絶ってしまっても不思議ではないような精神的状態にまで追い込む、具体的状況が存在した場合のことである。

なぜこのような基準を考えたかと言えば、それは自殺防止対策上、両者はアプローチが異なると思われるからである。内因的自殺の対策としては、広義のメンタルヘルスケアーの普及によって改善できると思われる。当然かかわる人も、精神科医やカウンセラー、行政のケースワーカー、いのちの電話の相談員といった人々が中心となる。要するに、心の病の治療ないし、カウンセリング等による現状認識や価値観の改善によって、自殺回避に導くことが可能な場合である。

一方、外因的自殺の場合、過酷な労働実態等が現実に存在するわけだから、状況そのものに対して働きかけを行っていくことが肝要である。例えば悪質な労働条件の企業には業務改善命令を出したり、あるいは、取立の厳しい金融業者に対して行政処分を行ったりすることである。状況そのものが自殺を誘発しているのだから、それが改善されなければ、第二、第三の犠牲者を招くことになるだろう。

そしてさらに強調しておきたいのは、外因的自殺の中でも明らかに加害者が存在する場合についての取り扱いである。この場合、刑事的立件を視野に入れた捜査がもっと強力に行われるべきではなかろうか。

白書では、自殺危機要因の「勤務問題」の下位項目として、「仕事上の失敗」、「上役等の叱責」、「人間関係の問題」、「職場のいじめ」などが挙げられている。しかし一口に職場の問題と言っても、単なる不和や意見対立の場合と、集団的いじめやパワーハラスメントなど加害者が存在した場合とでは、その意味は全く異なる。また、聞き込み調査の中には、長時間の残業を強いられ、それが元で病気になったら今度は解雇を言い渡されたという事例が紹介されていたが、この場合、その企業に加害行為があった見なされるべきなのではないのか。

私に言わせれば、これら加害行為によって引き起こされた自殺は「企業内間接殺人」に他ならず、自殺対策上特に着目して改善していかなければならない。

自殺対策基本法は、自殺が個人的問題ではなくその背景に社会的要因があることを認めている(第2条)。そして、自殺防止対策を真に実効あらしめるためには、明らかな加害者が存在した場合にはその犯人を特定することが重要であることを特に強調しておきたい。つまり、過酷な労働条件、組織内のいじめ、またパワーハラスメントが引き金となって、地球より重いと言われる命が奪われたとしたら、その原因を作った張本人なり組織なりに対して、何らかの刑事責任が問われるべきだということである。同じ過ちを二度と繰り返させないためにも、処罰が必要である。また、遺族にとっても、肉体的暴力があった場合殺人罪や傷害致死罪が適用されるのに、心理的暴力によって死に至った場合は、適用する法律すらないというのは、あまりに納得のいかない話であろう。

企業内の問題に対して、警察や労働基準監督署はもっと強力に介入すべきである。これが、長年中小企業のとんでもない実態を見てきた私の、心の叫びである。企業内で起きている暴力に対して、今まで国家はあまりに無関心でありすぎたのだ。

この調査においても、「上役等の叱責」などという言葉でお茶を濁さず、職場で何が起こったのかについてもっと追及してほしい。このような話は、恐らく家族にすら隠している可能性があるので、調査対象は遺族だけでなく、元同僚たちにも広げられるべきであろう。そして、徹底した調査は、国家の名の下に行われなければ、企業の協力も得られないであろう。そして、一次調査によって、「企業内間接殺人」の疑義のある企業に対しては、強制検査を視野に入れたさらなる調査が必要であろう。人の命が奪われたのだから、過去をほじくりかえすようなことがあっても、それは認められるべきである。現在の法制度によって、このようなことが可能かどうかはわからぬが、オーム事件の折カッターナイフを持っていただけで銃刀法違反で逮捕した融通無碍さをもってすれば、何でもできそうな気がする。もし法的整備が必要なら、パワーハラスメント防止法などを早急に作ればよい。年間3万人という自殺者の数は、それほどに重たい意味をもつ数字なのだ。

自殺増加の社会的背景には、単なる経済的側面だけではなく、企業による社会的暴力の問題が潜んでいると、私は確信する。今まで政府は、これにほとんで手をつけてこなかった。もちろん「企業内間接殺人」が起こるような企業は普通の会社ではない。しかし、このような会社の存在は、一般に思われているより遥かに多いのである。反社会的勢力の闇は、従業員10人以下の企業を中心に果てしなく広がっている。国は、ライブドアやグッドウィルのような大企業には法の網をかけても、アミーバーのように形や居場所を変える悪徳企業に対しては、ほとんど手を打つことができないでいる。それは労働基準法がザル法であり、労働基準監督官が、タイムカードや労働災害のチェックのみに終始し、特別司法警察職員としての本来の役割を果たしていないからである。

反社会的勢力が巣食う悪徳企業においては、「企業内間接殺人」どころか、現実の殺人まで起きているが、それはほとんど事件化されていないと、元企業舎弟企業準構成員だった作家の浅田次郎氏は指摘している。一方、刑務所は、万引きや無銭飲食で捕まった知的障害者やボーダーの人々で溢れ返り、知的障害施設の様相を呈している。(「刑務所は知的障害施設か?」参照)今日の刑事政策において、逮捕すべきは誰かという「罪と罰」の根本問題が疎かにされているのではなかろうか。

国家その始原において、反社会的勢力や暴力勢力を鎮圧・駆除することに、一義的存在理由があったはずだ。ところが、現在は、経済政策にばかり血道を上げ、本来の機能が見失われ、知能犯や悪徳企業の天国と化してしまっている。自殺増加の問題を契機に、国家は本来の己の役割に目覚めてほしいものだ。

2008年8月25日 (月)

裁判員制度広報ビデオ

平成215月から、国民が刑事裁判に参加するという裁判員制度が始まるが、先日、これに関する広報用ビデオを見た。法務省は現在この手の映像作品をいくつも製作しており、私が見たのは「裁判員制度―もしもあなたが選ばれたら―」と「総務部総務課山口六平太裁判員プロジェクトはじめます!」であった。

「裁判員制度―もしもあなたが選ばれたら―」には、俳優の中村正俊と西村雅彦が出演している。あなたなら、この二人が、それぞれどのような役柄だったと想像するだろうか。実は、初めて裁判員候補者に選ばれ当惑しているサラリーマン役が西村雅彦、そしてそれを説得する親切かつ熱意溢れる裁判官の役が、中村正俊であった。まず私は、このキャスティングに大きな違和感を感じた。普通なら、その逆ではないだろうか。周防正行監督の映画「それでもボクはやっていない」を私はテレビで見たが、小さな画面で見づらく、しかも最近視力が衰えてきたため、嫌な裁判官をずっと西村雅彦だと思っていた。しかし、後で小日向文世だということに気づいた。西村雅彦と小日向文世は遠目ではよく似ており、しかも裁判官のイメージとピッタリ一致する。中村正俊のような二枚目の裁判官がいることが、果たして想像できるだろうか。ちなみに、アニメ版の山口六平太でも裁判官が、二枚目ではないが人格者を思わせる厚味のある風貌に描かれていた。この辺に、この作品を製作した側のナルシストぶりがよく伺われる。

この中村正俊と西村雅彦の関係性は象徴的である。古畑任三郎以来、おっちょこちょいだが人のよいイメージを与える西村雅彦、そして、ハンサムで頭も良く、人間としてパーフェクトな印象を与える中村正俊。田村正和と西村雅彦の場合、田村正和演ずる古畑任三郎にはわがままな側面があったりしたが、中村正俊の場合、そういった欠点も払拭され、より完全無欠な人間像として浮かび上がってくる。そして、おっちょこちょいの人間と完全無欠な人間との間には、ある一つの関係性しか生まれてこない。すなわち、それは、一方がもう一方に対して「教え諭す」という関係である。

実際、この作品もそのような作りになっている。中村正俊が、悩める親、人間としての弱さをさらけ出す部分もあるにはあるが、しょせんそれは飾りに過ぎず、本質においては、「優秀である裁判官が国民のみなさんを指導してあげますから、大丈夫ですよ」という、尊大なメッセージしか聞こえてこない。

裁判制度が導入された目的は、キャリア制度の中で、裁判官の感覚は一般国民の常識と乖離してしまっており、その中に、国民の視点を取り入れることにあったはずである。すなわち、教え諭されるべきは裁判官のはずなのだが、このビデオにおいて、教え諭されるべきは相変わらず国民なのである。この点に関して、これを製作した法務省そのものが、裁判員制度の意味を理解していないのではないか、といった疑問が湧いてくる。

話がやや抽象的になってしまったので、この作品で取り上げている事件について具体的に紹介してみよう。酒場で、A(被告人)が、酔って狭い通路を通ったときB(被害者)の連れの女性にうっかり触れ、女性はコップをこぼし服を汚してしまう。Aはすぐに謝罪したが、Bはそれでも許さず、興奮してAを押し倒し、馬乗りになってAの顔面を何度も殴打する。連れの女性がBの暴行を止めている間に、Aはその場から逃げ出す。しかし、一方的に殴られたことに釈然とせず、Aは舞い戻ってくる。それを見つけたBは、再びAに襲いかかるが、今度はAは包丁を手にしており、それでBの腹部を突き刺す。

幸いBの怪我は軽症ですみ、公判のときにはほぼ完治していた。法廷では、被告人のAは深く反省している様子で、被害者のBは相変わらずチンピラ風の態度でAに罵声を浴びせかけていた。しかし、すでに、AはBに対して慰謝料を支払い、示談が成立しており、Bも実刑判決までは望んでいなかった。

結局、この裁判では、執行猶予のついた判決が下った(何年の刑かは失念)。大した異論もなく、終始中村正俊演ずる裁判官が、裁判員たちをリードする形で結論に導かれていった。そして、裁判員たちは、法廷で人を裁くという貴重な社会経験を得たことに満足しつつ、裁判所を後にする。

しかし、日本の裁判制度という枠組の中では、このような判決に妥当性があったとしても、別の視点からすれば必ずしも同じ結論にたどり着くとは限らない。だからこのケースでも、全く異質な意見が出てきて、それと喧々諤々の議論が繰り広げられるというケースこそ想定されるべきではなかろうか。法的常識の圏外にある思考様式と対峙し止揚させていくことが、裁判員制度の本当の目的ではないかと考えるのだが、いかがだろうか。

例えば、私なら、この判決に全然納得がいかない。BがAに難癖をつけ、Aをボコボコにしたのである。顔を何度も殴打され、当然怪我もしたはずである。この暴行に対する傷害罪は何ゆえ問われないのだろうか。Bの理不尽な暴力に対する復讐なのだから、Aの行為の方が遥かに正当性がある、と私なら考える。酔った勢いもあって刃物を持ち出してしまったのは確かにやり過ぎだったが、その結果、最初のBの暴行が不問にされるというのは、少なくとも私にとっては理解できない。

このような抵抗感がもっと強く出てくるのは、アニメ版の「総務部総務課山口六平太裁判員プロジェクトはじめます!」である。この事件では、上司が部下のことを日常的に殴っていたために、そのことに切れた部下が上司を刺してしまったというものだ。この裁判には山口六平太の上司が裁判員として参加するが、自分も部下をものさしで叩いていたので、ちょっと反省する。

しかし、このようなブログをやっている私にとって、上司の日常的な暴力行為は極刑にも値する。これは何も大袈裟に言っているのではない。パワーハラスメントはDV同様、根深い性格的要因があるため、繰り返し行われ、しかも被害が多数に及ぶ可能性もある。その中には深い心的外傷を被り、時には自殺に追い込まれることもある、重大な犯罪である。このケースでも、被告人は刃物まで持ち出してしまうほど極限状況に追い込まれていたのだ、と考えられる。だから、被告人の情状が酌量されるというだけでは断じて納得できない。頻繁に行われていた上司の暴力行為こそが、断罪されるべきなのだ。

いずれもこれらは私の主観である。この主観は、私自身の性格や経験によって形成されたものであろう。だから、他人に強要するつもりはない。しかし、人は、誰しも、このような主観をもっているものである。ゆえに、ある行為に対しては敏感に反応する反面、別の行為に対しては極めて鈍感であったりするのだ。そして、このような多種多様な感覚の振れ幅こそが、キャリア制度によって毒された一元的な価値観に揺さぶりをかける唯一の方法なのではあるまいか。そのためには、裁判官自身が、己の思考様式を相対化する文化人類学的視点を獲得しなくてはならない。しかも、その視点は、西洋人が未開民族を眺める視点であってはならない。そのような視点とは、己は完全無欠であり、相手はまだ未熟なので教え諭すといった視点と共通する。

さらに、一部の裁判官は、警察の調書を鵜呑みにし多くの冤罪判決を出してきたことをもっと自戒すべきである。国民の目から見て、呆れるような判決が何と多いことか。私は、このような冤罪事件をなくす希望を、この裁判員制度に託している。もちろんそれが吉と出るか凶と出るかは、施行されてみなければわからない。ひどい判決が百出しており、国民の怒りは沸点に達しているのだ。

要するに、裁判所は己を、中村正俊に重ねている場合などではない、ということだ。

2008年8月21日 (木)

刑務所は知的障害施設か?

 NHK教育テレビで、知的障害者の犯罪について放送され(「福祉ネットワーク」8/19)、その中で「新受刑者の知能指数」が紹介された。この統計は「犯罪白書」にも載っている。これによれば、新受刑者のうち、IQ69以下の人々が23%、IQ70~79の人々が23%、IQ80~89の人々が25%、IQ90以上の人々が24%、不明が5%、ということであった。通常IQ69以下が知的障害者と言われているが、IQ70代、80代にしてもボーダーと言われる領域で、日常生活や就労面でハンディを負うことが多い。そして、この統計によれば、IQ89以下の人々が、新受刑者の約7割を占めていることになる。

これは驚くべき数字でなかろうか。と同時に、日本の刑事制度はいったい今まで何をやってきたのかと、慨嘆させられる。要するに、本来ならば、福祉によって保護されなければならない人々を刑務所にぶちこんできた、ということである。

この番組でも、こういった人々は、刑期を終えて出所しても行く宛てがなく、ホームレスになるより他なく、その挙句、刑務所に戻るために再び犯行に及んでしまう例が多いと指摘していた。

IQ69以下が23%などと堂々と公表しているが、このような知的障害の範疇に属する人々の刑事責任能力が本当に問えるのだろうか? この点に関して、日本の刑事裁判は、きわめて奇妙なことになっているようだ。例えば、北尾トロ著「裁判長!これで執行猶予はあまくないすか」という裁判傍聴記には、弁護士、検事、裁判官がそろって、被告人の明らかな妄想話におつきあいしている場面が描かれている(「第20幕 悪魔がささやく」)。もちろん弁護士側としては、被告人に刑事責任能力がないことを証明しようとしているわけだが、有罪率99.9%という状況で検察が起訴したということは、本件も恐らく刑事責任が認められ有罪が確定するのであろう。

刑事裁判では、心神喪失が認定されると無罪になるのだが、心神喪失と認定される例は極めて稀であり、全事件数の50万分の1にすぎない。また、心神耗弱が認定されると刑が減刑されるが、これも、年間80名程度であるという。いずれにせよ、先の新受刑者の23%を占めるIQ69以下の人々のほとんどは、心神耗弱にも該当しないということになる(心神喪失の場合、受刑者にはならない)。 

民事の成年後見制度でも、心神喪失や心神耗弱と類似した概念が存在するが(以前は、心神喪失や心神耗弱という言葉が使われていた)、IQ69以下の知的障害者なら十分この制度が利用できるし、もっと軽度の場合でも、保佐や補助の利用が可能である。成年被後見人や被保佐人や被補助人になった場合、いったん結んだ契約を取り消すことができるので、判断力の不十分な人を餌食にした悪質な業者から身を守ることができる。民法と刑法は違うとは言え、あまりにアンバランスではなかろうか。

殺人などの場合を除き、犯罪の大きさはIQに比例すると言っても過言ではない。そのため、こういった判断力の低い人々の犯す犯罪の多くは、万引きとか無銭飲食といった類であろう。また、親に先立たれた知的障害者はホームレス化する場合が多いので、空腹をしのぐため、つい手をだしてしまったケースが多いだろうことも予想される。こういった可哀そうな人々をかたっぱしから刑務所に送り込むのは、再犯率が高いからという刑事政策的意図が働いているためかもしれない。また、犯罪加害者の軽度知的障害者の場合、制度のはざ間にあって、行くべき施設が存在しないということも、番組で紹介されていた。だからといって、保護施設の代わりに、刑務所にぶちこむというのはあまりに乱暴な話ではないか。

また、知的障害やボーダーの人々が、取調べの段階できちんと自分の無実を主張できるかという問題もある。取調官がその気になれば、いとも簡単に事件をでっちあげ、こういう人々を犯人に仕立ててしまうことが可能であろう。現にそういう事件が起こっている。

2004年、吉田清さん(56)が、二つの強盗事件で逮捕・起訴された。吉田さんは宇都宮市に住む重度の知的障害者であったが、刑事上の責任能力がないことは全く考慮に入れられず、それどころか、取調官が吉田さんの手を勝手に動かし、虚偽の自白調書を書かせられてしまったのである。
 その後、真犯人が見つかり、吉田さんの無罪は確定した。そのため吉田さんは、精神的苦痛を受けたとして、国と栃木県に対して国家賠償請求訴訟を起こした。
 2月28日、宇都宮地裁は、国と県に対して100万円の支払いを命じる判決を言いわたした。判決では、「警察官が知的障害者の迎合的特性を利用し、被害者供述に合致した虚偽の自白調書を作成した」ことが認定され、原告の主張がほぼ受け入れられたのだ。

受刑者の中に、IQの低い人が多いと言うことは、他にもこのような冤罪事件が含まれている可能性が否定できないことを意味している。
 さらに、軽度知的障害者ならび判断力の不十分なボーダーの人々は、被害者にもなりやすい。札幌で複数の知的障害者がきわめて劣悪な労働環境の下で20年以上もの間無給で働かされたという事件が今年発覚した(事業主は逃亡してしまった)。また、埼玉県富士見市在住の認知症姉妹が、悪質なリフォーム業者の餌食にされ、数千万円の全く不要な工事をさせられてしまった事件がマスコミでも大きく取り上げられた。私の直接知っているケースでも、判断力の不十分な60歳の男性が、結婚詐欺まがいにあって2億円近くの財産を奪われてしまった。埼玉県富士見市の事件によって、「リフォーム詐欺」という言葉が一躍脚光を浴びたが、それにもかかわらず、この事件では刑事上の詐欺罪は成立せず、一部が返還されただけで、ほとんどのお金は戻ってこなかった。また、私の知っているケースでも、あえて「詐欺まがい」と言ったのは、婚姻届を出せば結婚詐欺は成立しないからである。したがって、この女詐欺師が、何度同じ手口で人を騙しても、けして捕まることはないのだ。

無銭飲食や万引きなどの小さな罪を犯した軽度知的障害者は牢屋に入れられる一方、判断力の不十分な人々をカモにして、何千万、何億円を騙し取った人間に対しては、警察は指一本触れることもできない。これを不公平と言わずして、何を不公平と言えるのだろう。

そして、このブログのテーマとする中小企業と言う名の犯罪組織においては、日夜違法・脱法行為が行われているにもかかわらず、労働基準監督者や警察は、拱手傍観している。知能犯は法律を睨んで犯罪を犯す。これは当たり前のことである。一方、そういう頭の働かない人々は、単純な犯行に走ってしまい、簡単に捕まってしまう。そして、こういった罪で捕まった受刑者が、刑務所の約7割を占めている。

これらの受刑者には本来行くべき施設などに行ってもらい、その空いたところに本当の悪党どもをどんどんぶちこんでほしいと願うのは私だけであろうか……

                                                       

2008年8月18日 (月)

クレイマークレイマー

 大分昔評判になったダスティン・ホフマン主演の映画のことではない。悪質なクレームが氾濫している、今日の嘆かわしい状況のことである。以前取り上げたモンスターペアレント(「モンスタープレジデント」参照)も、この変種に違いない。違いは向けられている対象だけであって、商品と同列にされてしまったほど、今の教育者の権威が地に落ちているということに他ならない。また、110番や119番に悪質なイタズラ通報が増えているというのも、同種の現象と言えよう。

ところで、私はかつてこのクレームが毎日頻繁に行われている会社に勤めていたことがある。あまり行儀のよくない会社に入ってしまった結果なのだが、しかも、そういった会社は1社ではなかった。これらの会社では、クレームがあたかも日常業務の一環として行われていた。そのためクレームの実態を、つぶさに観察する機会に恵まれた。仮にこれらの会社を、A社とB社としておこう。

A社の社長は一見温厚な紳士で、上司としてもまともで、当然取引先に対しても特に変わった言動は見られなかった。ところが、ある条件下において、ジキルとハイドのように豹変し、我々を驚かせるのであった。それは、重要な取引の局面と、クレームにおいてであった。前者のように、のるかそるかの緊迫した状況の中で人格が変わるというのは、ある意味理解可能である。しかし、たかがクレームで、温厚な紳士が突然激昂して大声を出すと言うのは、どう考えても我々の常識を越えている。しかもその金額は些細なもので、1万円にも満たない場合が多かった。A社社長の場合、何故か電話料金の口座引落の手続をとらず、しかも、督促が来てから支払っていたため、そのタイミングが遅れると会社の電話が利用停止になってしまうことが度々あった。そんなことが理由で、NTTとしょっちゅう揉めていた。そして、たまにNTTに落度があると、担当者を呼びつけ土下座させたりしていた。NTTの人間が謝って帰った後、社員たちに向かってニコッと微笑みかけ、「よし、これで明日の契約、頑張るぞ」などと言っていた。要するにこれが、些細なことで難癖をつける真の理由だったのである。つまり、A社の社長にとり、このクレームは、ウォーミングアップだったのだ。ハードな交渉には、常日頃からの訓練が必要である。大声を出したり、怒鳴りつけたりする時の勘を鈍らせないためにも、機会を利用しては、研鑽を積んでいたのであろう。その他にも、しつこい営業電話がかかってきた時などにも、急にハイド氏へと豹変し、受話器を置いた後、「ごめんね、うるさくて」と社員たちに謝ってみせていた。

この社長のいいところは、次に紹介するB社と異なり、それを社員に強要しなかったことである。

私が経験したもう一つのB社でも、クレームは頻繁に行われていた。B社の社員の半分以上は前科者で、社長はクレームをこの社員たちに命じてやらせていた。ここでも、通信販売で購入した商品など、金額的にはたかが知れている場合が多かった。よく通信販売の広告で「商品到着後、気に入らなければ○日以内に返品して下さい」という決まり文句があるが、ある社員が「こんなこと俺たちに言っていたら大変なことになっちゃうよ」などと冗談ぽく語っていた。

要するにB社でも、クレームは社員たちのアウトロー教育の一環として行われていたのである。恐らく社長は、次のような点をチェックしていたに違いない。①嫌な仕事でも、自分の命令に忠実に従うか、②全く理由のないことで、どれだけ大声を出し騒ぎ立てることができるか。

幸か不幸か、私には才能がないと見られたせいか、この仕事のお鉢が回ってくることはなかった。一方、期待通りに仕事をこなした者は、何度もやらされていた。

統計を取ったわけではないが、恐らくクレームの中には、このようなヤクザのトレーニング的要素をもつものが相当数含まれているのではないか。ということは、それによって、一人前のアウトローが養成されていくわけだから、その悪影響たるや計り知れないものがある。昔は、債権回収がヤクザビギナーの仕事だと言われていたが、両者は似ている上、クレーマーの方が電話越しで安全なため、より初心者向けと言えるだろう。

しかも、半ば業務として行っているのだから、その被害の数も半端ではなく、膨大なものになるであろう。中に、脅迫に屈し理不尽な要求を呑んでしまうケースも少なくないはずである。そうなれば、真似する者も現れ、あっという間に広がっていくであろう。私自身、このような行動を最も忌み嫌うタイプであるが、クレーマーのロールモデルはしっかりインプットされているので、何かの折に発揮することになるかもしれない。

A社社長もB社社長も、けして堅気とは言えないが、別にどこかの暴力団の構成員になっていると言うわけでもない。同様に、盃事をしたわけでもない者が、クレーマとして悪の道に入ってで行く可能性を大いにある。そして、このように中途半端なアウトローが、今、猖獗を極めているのである。それによって得をし、何の制裁も受けなかったとすれば、その模倣者は加速的に増えていくに違いない。

ゆえに、度を越えた悪質なクレームに対しては、恐喝罪や強要罪を適用するという対策を早く取らねばならない。社会的影響力から考えればこれは急務であり、もたもたしていればモラルはどんどん破壊されていく。電子技術が発達し、電話での恐喝行為の録取が容易になっているのだから、これによって立証すれば、悪質なクレーマーに罰を与えること十分可能なはずである。

ちなみに、A社もB社も脱税はお手の物で、B社に至っては、退職後、国税庁から呼び出しを受けて、供述調書を書くはめになった。また、B社社長は、堀の外にいるのが不思議なくらい、さまざまな違法行為や脱法行為に手を染めていた。

クレーマーは悪事への入り口である。そして、私のように適性のない人間はこの段階で脱落していくし、この門をくぐりぬけた者は、さらに本格的に悪事へと手を染めていくはずである。したがって、この段階で食い止めることができなければ、潜在的犯罪者の資質を開花させ、世に送り出していくことになるのである。

百円の缶コーヒーの万引きでも、繰り返せば、窃盗罪として実刑判決を受けることになるが、クレーマーは何度繰り返しても、けして罰せられることはない。万引きより遥かに社会的悪影響が大きいと思われるクレーマーに対して、法の網が被せられないとうのは、なんとも不条理かつ片手落ちではなかろうか。刑事政策は、このような悪党の行動パターンや社会的影響力を睨んでなされるべきではないのか。

2008年8月15日 (金)

秋葉事件-孤立化したマイノリティ―

サンデープロジェクト(8/10)で、秋葉原無差別殺傷事件が取り上げられ、パネラーとして姜尚中、櫻井よしこ、東浩紀、香山リカと、左右及びおたくの錚々たる論客たちが顔を並べた。姜尚中は、経済格差によってもたらされた日本の若者の「在日化」について指摘した。また、櫻井よしこは憲法による過剰な権利意識と義務意識の希薄化と、それに伴う自己規律の低下を問題視した。これに対して東浩紀は、グローバリズムや社会構造の変化など多様な問題が絡んでおり、憲法だけを変えても状況は何も変わらない、と反駁した。さらに東は、2チャンネル上で秋葉事件の加藤容疑者を支持する者が2割いたことを紹介した上で、ネット上の言説は本気かどうかあてにならないことも付け加えた。

大筋どの主張もそれなりに的を射ており、特に異論はないのだが、逆に言えば、誰でも考えつきそうな常識的な発言ばかりであったと言えなくもない。これらの論客たちは、持論の枠組の中で現象を解釈しようとしているため、迫力に欠いた論評に終始しているのであろう。現在私は、日雇い派遣によって収入を得ることを余儀なくされ、はからずもフィールドワークをしてしまっているため、彼らより少しはましな結論にたどり着けるのではないかと自負している。

以前私は、日雇い派遣の場合、派遣先で嫌な思いを味わったとしても、現場が常に転々と変わるため、怨恨としての対象を特定個人に絞り込めない点を指摘したが(「無差別殺人事件について」を参照)、さらにつけ加えたいことがあるので、以下述べてみたい。

派遣の初日、私はきわめて印象深い光景を目にした。それは休憩時間のことである。各人は一定間隔を置いて、地べたに腰を下ろして休憩をとっていた。若者の多くは携帯電話を見つめ、メールを打つなどしていた。また、それ以外の者たちは、近くの壁によりかかったりしながら、黙々と時を過ごしていた。この一定間隔の距離というのは、会話が成立しない距離のようでもあり、彼らは、話しかけられることを拒んでいるかのように見受けられた。

その後、回数を重ねていくうちに、仲間同士で親しげに語り合っている光景を目にすることもあった。考えてみれば無言で休息時間を過ごすというのは、必ずしも異様な光景とは言えないであろう。クラス替えや新たなグループに参加する時など、初対面の者同士がしばらくは会話のきっかけをつかめず、沈黙しているのと同じと考えればよい。しかし、派遣の場合、初対面の者同士で作業をするケースが多く、会話がないまま1日が終るということの方がむしろ普通であろう。したがって、通常の仕事に比べれば、同僚同士のコミュニケーションが圧倒的に不足しているというのは事実である。

そして、話している内容に耳を傾けると、そのほとんどが仕事に関する事柄なのである。フリーターというと多くの誤解があるが、彼らの中でもこれで糧を得ている、いわゆる「レギュラー組」と呼ばれている人々は、恐ろしく仕事熱心である。その分能力主義的傾向も強く、仕事でのできない者に対する目も、きびしいものがある。また派遣の場合、日々現場が変わるために、話題にこと欠かない面もあり、このような仕事の内容に関する情報交換が会話の大半を占めている。

しかし、私のサラリーマン時代の経験と引き比べて違和感を覚えるのは、各人のプロフィールに関する情報がほとんど交わされていない、という点である。前職は何なのか、出身地はどこなのか、彼女はいるのか、趣味は何なのか、最近観た映画は何か etc. こういったことについて話されることはあまりない。この仕事を始めて2年近くになるが、このような話題を耳にすることは稀で、仕事に関する話題が尽きると、ほどなくそこで会話が止まってしまうのである。

当初は、主要メンバーから見れば私はロートルのため相手にされておらず、仲間同士の話題から蚊帳の外に置かれているのではないかと僻んでいた。しかし、仕事の失敗談、例えば、高所作業中トイレに行けなくて小便を漏らした話とか、セキュリティーの厳しいビルで夜遅く非常階段の出口から出たらドアがロックしてしまい、携帯から110番をかけ警察に救出されたが、派遣先から大目玉を食らった事件などは、ちゃんと耳に入ってくるのである。しかし反面、各人の経験談が語られないというのは、なにゆえであろうか。

その理由となると、内部にいる者にとっても判然としない。世間からワーキングプアと呼ばれ、社会の底辺いるというトラウマが、自己について語る口を重たくさせているのではないか、ということが一つ挙げられる。通常なら、同じ仕事に長い間従事して来たことは、ベテランとして、敬意の対象になりうるが、この仕事に限って言えば、それは、惨めなカミングアウトになりかねない。また、羽振りの良かった経験のある者が、過去の栄光を語ったとしても、転落者が何を偉そうにと言われそうである。私も、場の空気に合わせて沈黙している一人だが、その理由は後者に近い。

しかし、マイノリティの者がマジョリティの中にポツンと一人だけいる場合ならともかく、同じ境遇の者同士が集まっているところで、このような規制が働くというのは今ひとつ釈然としない。もちろん前歴や現在の立場はまちまちまちだが、それは、例えばタクシードライバーなどにおいても同様であろう。ところが、タクシー運転手の場合、事情は大分異なるようである。梁石日の「タクシー狂躁曲」などには、ドライバーたちが仕事から戻ると、休息室ではバカ話に花が咲き、己の過去をさらけ出している様子が描かれている。さらに彼が生まれ育った朝鮮人部落のマイノリティ社会は、一般の地域社会より遥かに濃密な人間関係によって彩られている。姜尚中が指摘した若者の「在日化」とは、マイノリティ化と言い換えてもよいと思われるが、この辺が在日社会とは大きく異なる点ではなかろうか。すなわち、派遣の若者は、あたかも仮面をかぶって、仕事という振舞いを通してしか互いの接点を持ち得ないでいる。古い知識で恐縮だが、ゲマインシャフトかゲゼルシャフトで言えば、日雇い派遣の場合、明らかにゲゼルシャフト的である。しかも、通常の会社組織よりも、さらに機能的関係のみが凝結してしまった、究極のゲゼルシャフと言えるのではないか。

それでは、雇い先の派遣会社との関係においてはどうであろうか。日雇い派遣の場合、派遣会社から派遣先を紹介されるが、この紹介は希望しても受けられないことが多い。そして、このことが派遣社員にとって、最大のストレスとなる。中でも、派遣労働のみで生活しているレギュラー組と言われる人々にとっては、死活問題となってくる。しかし、誰にどの仕事を振り分けるかの権限は、派遣会社の社員が握っているため、社員には逆らえず、仕事を配分してもらうためには気に入られようにするしかない。派遣会社の社員の中には、その立場を利用して、派遣労働者に対して生意気な口のききかたをする者も少なくない。しかし、派遣労働者の方も、仕事がなければ明日の生活にも困るので、複数の派遣会社に登録し、ダブルブッキングしたりして対抗している。そのため、仕事の当日になってドタキャンする者が後を絶たない。

このように派遣会社と派遣労働者の間には、「利用する―利用される」だけの、冷ややかな関係が横たわっている。そのため、多くの派遣労働者は、派遣会社に対する忠誠や信頼感などというものは、はなから持ち合わせていない。そして、仕事が来なくなったら、内部告発してやるといきまている者が結構多い。実際、グッドウィルやフルキャストの問題も、このような内部告発者によって発覚している。

このように派遣労働者には、横の関係においても、縦との関係においても、きわめて細い絆でしか結ばれていない傾向がある。さらに、彼らの多くが単身者であり、家族との絆も薄く、また、地域社会で重要な役割を果たしている者も稀であろう。一部の者は、ホームレスなのだから、足場とする地域社会すらもたないことになる。要するに派遣労働者は、さまざまな意味で共同体から断絶された、いわば「孤立したマイノリティ」とでも呼ぶべき存在なのである。

一般に、マイノリティは、社会的ストレスを受けやすく、社会で受けた個人の傷を、集団的に受けとめる傾向がある。同じ境遇にあり、同様の経験をしたことのある者同士が、傷ついた者の怒りや悲しみの感情を吸い上げ、癒してきたのではなかろうか。そして、それでも癒しきれない深刻な差別を受けたり、グループ全体にとって許しがたい攻撃があった場合には、暴動に発展することもあるだろう。しかし、それはよほどの場合であり、滅多やたらに起こりうることではない。ということは、このようなマイノリティ・グループにおける癒しの機能は、個人的暴走を食い止める、安全弁の役割を担ってきたのではないか。

これに比べ、派遣労働者は、そのようなマイノリティ社会をもっていない。そのため、一匹狼的な内部告発へのモチベーションが高まるのであろう。しかし、内部告発が成就して、その企業が制裁されるケースはきわめて稀である。そうなれば、安全弁を持たぬ派遣労働者は、ガス抜きもままならぬまま、ストレスがどんどん蓄積されていくことなる。それはあたかも、エアポンプで空気を送り込まれ、後は炸裂するしかない気球のようでもある。

私にとり、内部告発から先の、無差別殺人までの道のりは一直線であるかのように思える。言葉を正確に使えば、それは「無差別殺人」の予備軍的状況という意味である。

実際に行動に及ぶ者は、ごくほんの一部に過ぎないであろうが、その動機や苛立ちを共有できる者は、膨大な数に上るに違いない。これが、「無差別殺人」の予備軍的状況の意味合いである。そして、無差別殺人の矛先は社会全体、もっと言えば、マジョリティに対して向けられているはずである。その日の糧すら満足に得られないマイノリティの者たちを踏み台にして、マジョリティ社会が成り立ち、飽食の限りを尽くし、しかも国家がそれを支持している。だとしたら、そういった状況そのものを破壊したいとい思う気持ちが湧いてくるのも当然であろう。東はネット上の言説は信頼がおけないという不可知論に立っているが、このような意味で、加藤容疑者への共感者が2割近くいもいたことは、けして不思議ではないのである。

そして、「無差別殺人」の予備軍から、犯罪への引き金となるのは、やはり性衝動ではなかろうか。マイノリティの心の傷と鬱屈した性衝動が重なり合ったとき、核融合反応が生じ暴走へと駆り立てるというのは、十分納得の行く説明である。その点、加藤容疑者は正確に言語化していたと思われるのだ、マスコミはまともに取りあわなかったようである。これを矮小化して片付けても、何の解決にもつながらないのだが。

もう一つ、櫻井の指摘した自己規律の問題は、単純なようで意外と重要である。しかし、識者が論ずるように、自己規律を高めるのは教育だけの問題ではない。自分の経験に照らしても、幼児は先験的にモラリストなのである。教育がそれを伸ばしていないことは紛れもない事実であろうが、それを解決するためには儒教教育でも復活させるしかない。しかし、先験的モラリズムが決定的に崩壊させれられるのは、むしろ社会に出てから後のことなのではないか。正直者がバカを見る緩みきった社会のありようを目の当たりにし、それに引き比べ自分のバカ正直で悲惨な状況を顧みるにつけ、社会に対する怨嗟の念が沸々とたぎってくるのではないか。人間は貧しいだけで、社会を呪うようになるわけではない。全員が貧しければ、それなりに納得のしようもある。一部の者が不正な手段によって財をなし、そのことに対して、社会が何ら制裁を与えないことに対して苛立つのだ。この状況は、櫻井が指摘するような、憲法改正なではどうしよもない。それよりももっと下位の法律、刑法や労働に関連する諸法、そしてその運用こそが見直されるべきなのである。

そして、社会の規範が溶解しつつある今日、殺人はなぜ悪いのかとうい究極的問いかけに対する答えすら、我々は見失いかけている。そのため、チャップリンが「独裁者」に言わしめた「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む」という言葉さえ、十分な説得力をもちつつあるのではないか。このことは、さらなる大きな、無差別殺人への契機を孕んでいる。

2008年8月 5日 (火)

派遣イジメについて

 派遣社員に対する「イジメ」は確かに存在する。極端なイジメとまでとはいかないまでも、小ばかにしたような取り扱いを受けた経験は、ほとんどの派遣社員が味わったことがあるであろう。人の出会いは一期一会なのだから、もっと大切にすればよいものをと思うのだが、どうやら我々はそのような対象とは見なされていないらしい。

会社における通常のイジメとは、一定の観察期間を経て、集団の中で低く評価された者に対して加えられるケースが多い。しかし、派遣社員に対するそれは、そもそもの社会的地位の低さに由来しているようである。中には、頭のおかしな派遣先の社員がいて、全く落ち度がないにもかかわらず、ほぼ5分毎に怒鳴り散らされたことがあった。しかも、そいつは私よりずっと年下の人間である。今更長幼の序などという古臭い道徳観念を持ち出すつもりはさらさらないが、あまりに不当な暴言に耐えがたい屈辱を味わわされたものであった。この手のやからは、絶対的に立場の弱い者に対してサディスティックな攻撃を加えることによって快感を得ているとしか思えない。

また、力仕事の場合、腕力は一瞬にして知れてしまうので、非力が発覚した途端、態度を急変されるということはよくある。幸い私は平均的筋力があるようで、このことを理由に攻撃されたことはないが、仲間がやられている場面を目撃したことはある。

 これらの積極的な「いじめ」の他にも、消極的ないじめ、すなわち、直接手を下さない陰湿ないじめというのもある。昨年の6月から、民間監視員による駐車違反の取り締まりが始まった結果、駐禁対策という新たな仕事が、派遣業務の中に加えられた。この仕事は、トラックの助手席にただ座って、ドライバーが納品している間監視員に切符を切られないようにするためのものである。したがって、配送助手と異なり、肉体的な作業は何もしないため、ドライバーから嫌がらせを受けやすい。例えば、ドライバーが納品中自分だけトイレを済ませてきて、派遣社員には行かせてもらえないという話をよく聞く。もちろん行きたいと言っても行かせてくれないわけではないと思うが、それがなかなか言いづらい雰囲気は、この仕事をやってみた者でないとわからない。公衆トイレはどこにでもあるわけではなく、しかも配送作業は、秒単位の過密なスケジュールの中で行われているため、自分のためにわざわざトラックを停めてくれと申し出るのには、相当の勇気を必要とする。だから、普通の感覚の持ち主なら、トイレのある納品先に来たときには、ドライバーの方から声をかけてくるのが当然である。それをしないというのは、明らかに嫌がらせであり、事実同じ経験をした者は、みなそのように受け取っていた。

 もう一つ引っ越しの仕事で、よく受けるイジメがある。引っ越し作業は先ほども述べたように筋力を必要とするので、非力な者ほど被害に遭いやすい。我々の仕事はあくまで引っ越しの「補助」のはずなのだが、それにもかかわらず、重い荷物が持てないと、容赦なく攻撃されることがある。また、ドライバーによっては、荷物を持って階段を駆け上がる時、「足元を見るな」などと言ってくるとんでもない奴がいる。私は、テレビでお馴染みの某大手引越しセッターの社員から、この言葉を吐かれたことがある。足元が不安だから見るのであって、見なければ間違いなく転んでしまうだろう。もし転倒し、物損なり労災の事故を招いたら、どう責任をとるつもりなのだろうか。「足元を見るな」と要求する社員は他にもいるらしく、これもときどき話題になる。

 もちろん、このようなことを会社が率先して指導しているわけもなく、ドライバー個人の性格によるところが大きい。しかし、100パーセント個人の問題であるかというと必ずしもそうではなく、会社の影響力が少なからず働いているものと思われるのである。

S社という中堅の運送会社があるが、そこの社員は押しなべて派遣社員に対してやさしい。私もそこの仕事を何度かやったことがあるが、そのうちの1度は社長自ら現場に赴いていた。しばらく社長であると気づかなかったほど、派遣社員に対しても腰が低い人であり、社長の薫陶を受けるとはこういうことなのかと、その時実感したものだった。恐らく他の社員たちも、社長の姿勢に見習って、派遣社員に対して同じように接していたのであろう。

 S社は特殊なケースであり、すべての会社がこのようになってほしいと考えるほど、私は世間知らずではない。しかし、冒頭に挙げたように明らかに常軌を逸した攻撃が派遣社員に対して加えられた場合などには、やはり何らかの規制が必要ではなかろうか。派遣事業者(つまり、派遣社員が登録している会社)にとって派遣先はお客さんであるため全く頼りにはならず、ここに文句を言ってみても始まらない。私も、別件で、あまりに危険な作業であったため、担当者にクレームを述べたことがあるが、その仕事が自分に来なくなっただけであった。

 要は、派遣社員の声にきちんと耳を傾けてくれる行政の窓口があればよいということである。それも労働基準監督署のように企業側に立ち、門前払いするところではなく、労働者の側に立ち、親身になって話を聞いてくれるところでなければならない。そして、複数のクレームが寄せられた企業に対しては、何らかの行政指導がなされるべきである。某大手引越しセッターなどには、恐らくこれが効果てき面であろう。朝礼で派遣社員に対して「足元を見るな」などと要求してはならないことを周知徹底させれば、一発で改善されるはずだ。大手は風評を気にするので、コントロールしやすいのだ。また、許認可業種に対しては、営業停止処分で脅しをかけることができるであろうし、許認可でコントロールできない企業に対しても、公表とかいくらでも方法があるはずである。要はやる気次第なのだ。

2008年8月 1日 (金)

日雇い派遣禁止について

今秋にも労働者派遣法の改正案が上程され、日雇い派遣が禁止されるということが報道されている。私は、日雇い派遣会社5社に登録しており、いわばこの動きの真っ只中にあると言える。しかし日々、派遣会社の社員や派遣労働者の様子を眺めていて、動揺している気配は全く感じられない。恐らく、この法律が成立しようがしまいが、自分たちの飯の種となる派遣労働は未来永劫なくならないと、たかをくくっているのであろう。

日雇い派遣は、需要と供給の双方に大きなニーズがあり、今更急に止めろと言われても止められるものではない。違法業者が厳格に処罰されるならばともかく、例によって実質野放しの規制に終るのだろうから、ほとんどの業者は今まで通り続けられると思っているのであろう。何度も指摘しているが、現在の労働者派遣法で禁止されており、グッドウィルやフルキャストの営業停止処分の原因ともなった建設業務や二重派遣は、いまも多くの派遣会社において行われているのだ(港湾業務についてもおそらく同じであろうが、具体的情報は得ていない)。

ちなみに私の登録している業者のうちの1社は、一般労働者派遣事業の許可さえ受けていないいわゆる闇業者である。だから、もともとこの法律の蚊帳の外におかれているのだ。もし、本格的な規制が行われたとしても、この業者だけは従来どおり仕事を続けるに違いないと確信している。

日雇い派遣は、それを利用する者にとって麻薬のようなものであり、一度味をしめたら絶対に手放すことができない。職人の仕事の中には、石膏ボードの移動などの重労働や、梱包された部材の開梱といった、単純だがやたら時間がとられる仕事が含まれている。これらを派遣労働者にまかせれば、本来の技術的な仕事に専念できるのだ。そして、日雇い派遣が広く利用されるようになってからすでに月日が経っているので、今更元の体制に戻せと言われても、戻すことができない体になっているのである。特に、職人の中には高齢者もいるので、今更重い部材を運べと言うのは、我々の目から見ても少々気の毒である。麻薬中毒患者が犯罪者になるのを覚悟の上で麻薬に手を出すのと同様、派遣の便利さを享受してしまった者は、違法だろうがおかまいなしに、今後もこの制度を利用し続けるに相違ない。しかも、麻薬取締法と異なり、労働者派遣法の罰則などたかが知れているので、無視する業者がたくさん現れても不思議ではない。

一方、労働者にとっても、日雇い派遣は大変使い勝手のよい制度である。よく言われるように自分のライフスタイルによって、好きな時間に仕事ができるといったメリットは見逃せないが、中には、このような形でしか働けないという人たちもいるのである。私がこの仕事で知り合ったある者は、体が弱く、一日働くと1週間ぐらいはダウンして家で寝込んでしまうことになる。回復に要する時間がどのくらいかかるかわからないので、アルバイトやパートもできないが、この仕事なら、前日に予約を入れればよいので、なんとか勤まるのだそうだ。

このように、日雇い派遣は需要と供給の双方に強いニーズがあり、しかもそれにはそれなりの合理性や正当性があるので、実態を無視して禁止を断行すれば、強烈な反発と無数の違反をまねくだけだ。

政治家や評論家は、立法さえすれば事は終ったと考える節があるが、問題は、それから先の運用面にこそあるのではなかろうか。派遣労働は確かに労働者に対する不当な搾取を生みやすいが、それを根絶するためには、一つ一つの問題に対してていねいに対処して行く日々の努力の積み重ねこそが肝要で、それなくして、単に法律だけを変えてみても何の問題解決にもならないであろう。そして、違法行為が横行すれば法律の権威は失墜し、その結果あらゆる面で横暴がまかりとおるようになり、労働者はますます苦境に立たされることとなる。

今、必要なのはほとんどの者にとって遵守可能な立法と、違法を犯した者に対する強い制裁なのである。

2008年7月30日 (水)

無差別殺人事件について

 秋葉原の事件に続いて、不特定多数の者を対象とした無差別殺傷事件が頻発している。テレビなどのコメントなどを見ると、犯人の個人的責任を追及する発言が多く、いい加減うんざりしている。私は、無差別大量殺人こそが現代犯罪の典型でありかつ象徴であると、オウム事件の頃から考えていた。個人に問題があるのは当然であり、それはあらゆる犯罪に共通して言えることである。しかし、今回の一連の事件のように、容疑者の多くが派遣労働などの低所得者層にあるならば、社会的背景こそもっと重視されるべきであろう。しかし、これも所詮無理な注文なのかもしれない。テレビでコメントする有識者などというのは、低所得者層に対する共感力に最も乏しい場所にいる人々なのだから……。

 私は、無差別殺傷事件という犯罪類型に非常に共感してしまうたちの人間である。きれいごとを抜きにして言わせてもらえれば、多くの人間は潜在的に殺人願望を有していると言っても過言ではない。それは、ドラマや小説の中では、恋愛と同じくらいの頻度で、殺人と絡むストーリーが存在している事実からもうかがえよう。これは、愛やエロスの衝動と同じくらいの強さで、殺人や暴力に対する衝動を人間が抱えもっていることの証左でもある。それを物語の鑑賞や創造的破壊と言った代償行為によって、多くの人々は犯罪から免れているにすぎないのだ。ゆえに、本能のはけ口や合法的な代償の手段を失った人々が、このような行為へと駆り立てられていくのは、むしろ必然的であると言ってもよい。

 もう一つ、「無差別」の意味についてである。これは、怒りの矛先が社会という抽象的な存在に向けられているということに他ならない。従来型の犯罪では、怨恨の対象が特定個人に向けられていた。社会で長く働いていれば、殺したい思う相手が一人や二人いても、けして不思議ではない。しかし、怨恨感情は一朝一夕にして形成されるものではなく、それなりの熟成期間を必要とするものである。私もかつて同僚の中にそういった存在がいたが、その者に対する感情は20年近い年月を経て培われたものであった。ところが、派遣労働の場合、職場がコロコロ変わるのが通例であり、しかも身分が不安定であるため、短期間にかなり強烈ないじめに会うこともしばしばである。すると例えば、ある職場でAからひどい仕打ちを受け、次の職場でBからいじめを受けた場合、AやBという一個人に対しての恨みを蓄積するだけの時間が足りないのである。しかし、職場が変わっても、同様のストレスにはさらされ続けいく。そのため、怨恨の対象が特定されぬまま、方向性を持たぬ憎悪や怒りの感情だけが溜っていくことになる。

 そしてさらに、今はこの感情を吸い上げるだけの社会的装置が消滅してしまっている。「蟹工船」がベストセラーになっていることからもうかがえるよう、劣悪な労働環境が若者の間に広がっているにもかかわらず、小林多喜二が夢見たようなマルクス主義の理想や労働運動に対する期待感は誰も抱けないでいる。労働組合は、ごく一部の企業においてしか有効に機能しえないし、その一部の企業でも組織率は毎年低下している。そして、行政は基本的に企業の味方であり、このことは労働基準監督署が労働者の声に耳を傾けていない現実によっても示唆される。

 そして、低所得の若者は、恋愛や結婚からも排除され、それは秋葉原の事件によって端的に示されていた。行き場を失ったエロスとタナトスが入り混じりあい、矛先となるべき対象も見出せないないという、完全な閉塞状況の中で暴発しているのが、昨今の事件であったと言えるだろう。

 しかし、私は何も、このような犯罪者を擁護し、情状酌量し減刑すべきだとは露ほども考えない。このような犯罪を起こした状況がリアルに想像できるだけに、もし自分がその立場だったら、潔く死を望むだろうと確信できるからである。謝罪しない容疑者が多いと言うが、これはある意味、社会の矛盾が己に憑依したような感覚に襲われているからではなかろうか。今後無差大量殺人が増えることが予想されるからこそ、死刑制度は絶対に存置しなければならないと考える。

 そして同時に、無差大量殺人という抽象的な社会というものをターゲットにした犯罪から発せられるメッセージに対して、耳を傾けなくていかなくてはならないのは当然である。びほう策のようなもので間に合えば越したことはないが、もっと本質的な問題が関与しているような気がしてならないのである。

 

 

2008年7月25日 (金)

介護保険の利用目的制限

私の母親は高齢で、介護保険を利用しているが、先日、ケアマネジャーと話していて、この制度のもつ奇妙な点に気づかされた。

現在母は要介護2度で、週1回の入浴サービスのみ受けているが、それだけでは利用時間をすべて使いきれていなかった。そのため、ケアマネジャーからデイサービスの利用を勧められ、一度試しに見学に行ってみたが、本人が全く興味を示さないので、それも立ち消えとなっていた。

そこで、ホームヘルプで掃除を頼めないかとケアマネジャーに頼んでみたところ、急に困ったような表情になり、難色を示すのである。清掃はホームヘルプの中でも最も利用頻度の高いサービスと思っていたので、不思議に思い、その理由について尋ねた。すると、驚くべく答えが返ってきた。

つまり、うちの家族で母親以外は介護認定を受けていないので、他の者がやればよいと行政から解釈されると言うのだ。ちなみに父親は90歳である。あるいは息子の私がやればよいということらしい。私は当然働いているが、私の仕事が掃除ができないほど長時間働きづめであるという事実を証明できないかぎり、許可されないだろうと言うことであった。しかも、利用できるサービスというのは、箒でサッサと掃く程度の簡単な掃除のみで、床拭きとかレンジ廻りの油汚れは対象外とのことであった。中には、草取りまで要求してくる方もいるんですよと、困ったように言っていた。

しかし、箒でサッサと掃く程度のことであれば、今の母親でもできるのである。だが、油汚れの掃除とか、焦げた鍋の汚れをクレンザーで落とすなど難易度の高い清掃は、年寄いた母親には無理である。当然家族の者にとっても負担が大きい。だから、難易度の高い清掃に関してこそ、ホームヘルプを利用したいと考えるのは、普通であろう。しかし、現実は逆なのだ。

後日、別の介護事業者の職員と話す機会があったが、このような利用目的制限には、現場からも疑問視する声が上がっているという。介護を受けている母親以外は受験勉強中の娘しかいないといった家庭でも、その娘がいるので、清掃のサービスは受けられなかったという話だ。また、旅行もダメだし、選挙に行くときも利用できないということだ。これなど、明確な憲法違反ではないのか。

草取りにしても、家でできる者がいなければ、草ぼうぼうとなり、昔よくあったきちがい屋敷のように、周囲から偏見の目にされされることになろう。また、最近は悪質業者もおり、年寄りがうっかり草取りを頼もうものなら、後で法外な料金を請求されたりすることもある。一頃問題になったリフォーム詐欺のような事件にもなりかねないのだ。

確かに、女性の多いヘルパーにとっても、これらは重労働には違いない。だったら、住宅改修を指定工務店に委託する時のように、水廻りの清掃や草取りを介護事業者から指定業者に委託できるようにすればよいだけの話だ。何もかも介護事業者がすべて抱え込もうとせず、不得手な分野に関しては専門の業者に委託すれば、お金も社会全体に回るし、利用者の満足度も高まるので、いいことづくめではないか。また、指定業者制にすれば、悪質な業者も排除しやすくなることだろう。

この間、日雇い派遣で運送業のバイトをしたが、エアコンの配送も行っているその会社では、取り付けまではできないので、販売店からいったん運送会社まで移した後、専門業者に引き渡し、エアコンの取り付けはその業者が行っていた。このような合理的分業こそが、民間の一番の強みなのではなかろうか。行政だとこのような分業はしづらい面もあるだろうが、介護保険は民民の契約なのだから、このくらいの柔軟性があってしかるべきだろう。

一方に、介護保険制度の背景には、ノーマライゼーションという思想があるはずである。すなわちそれは、コミュニティケアによって、在宅でも普通と同じ生活ができることを、社会が保障するといった考え方である。台所に油がこびりつきどろどろとなり、庭は草ぼうぼうの生え放題、便所からは臭気の漂う家が、普通と果たして言えるのだろうか。

そして、肝心なところへのサービスを拒絶しながら、デイサービスなどという望んでもいないことばかり、セールスマンよろしく何度も勧めてくる。これでは、利用者にメニューを合わせるのではなく、メニューに利用者を合わせていることになろう。新しい福祉では利用者主体というキーワードが強調されているはずだが、利用目的制限を行う介護保険のどこに、利用者主体の精神があるというのか。

介護保険制度誕生の背景には、措置から契約へという福祉思想における大転換があったはずである。だから、後のことは、民民の契約に任せておけばいいのに、行政はいまだに措置の頃の感覚が抜け切れず、利用目的制限などと、余計なところにまで口をはさんでくる。もちろんモンスターペアレントが増えているご時世だから、中にはとんでもない理不尽な要求をしてくる利用者家族もいることだろう。それには、断固として対処すべきである。しかし、草取りをしてくれといったことが行きすぎた要求だとは、到底思えないのである

そして、介入しなければならない肝心の部分に対して、行政が手を拱いているというのは、このブログでさんざん指摘してきた通りである。

2008年7月19日 (土)

「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中」について一言

昨日の「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中」(日本テレビ)について一言。マニフェストは、「派遣社員が1年働いたら、正社員として採用する」というもので、提案者はサンドイッチマン。サンドイッチマンは昨年のM1で優勝するまでは長いバイト生活を余儀なくされており、実体験にもとづいてのプレゼンはなかなかよかった。

さて、中味に関してだが、この手の議論に必ず出てくる主張の一つに、派遣社員から脱出するために資格を取るとかの努力をするべきだ、というものがある。この番組でも、経営者サイドの連中がその手の主張をしていた。しかし、この発言の裏には、派遣労働(その多くは単純な力仕事)そのものが、脱却しなければならぬほど価値の低いものであり、資格に基づく仕事(その多くはデスクワーク)の方が価値が高いといった偏見がある。これに対して、出演していた覆面の派遣社員が、「資格を取るためにお金もかかるし、自分たちにはその時間もない」と反論していたが、これでは自分の仕事の価値が低いことを認めてしまうことにならないか。

派遣労働は本当に価値が低いのだろうか。派遣でよくやる仕事に「荷揚げ」というのがある。中でも石膏ボードは、重量があるだけでなく、脆く破損しやすいため、天井や周囲の壁とぶつけぬよう、細心の注意を払って運ばなければならない。以前、3枚の石膏ボードを、スペースの窮屈な階段の中を猛烈なスピードで運ぶベテランがいたが、それを見て私は、「神業だ!」と思った。あれなど、単に力だけでできるものではけしてなく、周囲の位置関係を瞬時に把握する高度の空間認知能力が不可欠であろう。

私自身、現在も日雇い派遣の仕事をしているが、その多くは、たとえ補助作業であっても、それなりのキャリアを必要とし、極めて行けば奥の深いものばかりである。それを貶めているのは、仕事そのものより、社会の見方の方なのではなかろうか。

また、派遣の作業は、一連の工程の中の不可欠な部分を担っているのだから、それを否定してしまったら、一体誰がそれをやるというのか。資格を取って、もっと給与の高い仕事に転職せよという人は、この仕事を否定していることになる。人々が、きつくて汚い仕事から免れられているのは、それを誰かが引受けてくれているお陰なのである。そういう人々に対して、努力不足を非難するなど、とんでもない話である。

今でこそ、日本はサラリーマン社会になってしまったが、江戸時代などは、「宵越しの金は持たない」という言葉にも見られるように、多くの人たちが、その日暮らしで、しかも肉体を使った仕事に従事していたはずである。この労働形態は、むしろ派遣社員のそれに近い。私は派遣社員がその生活にどっぷりとつかってしまう理由の一つに、このような過去回帰願望があるのではないかとさえ疑っている。

ところで、私は心情的にはこのマニフェストを支持する人々に与するが、法案そのものには反対である。こんな法律ができたところで、それを遵守する経営者がどれだけいるというのだろう。違法行為が続出するような法律を作れば、法律の権威がますます失墜するだけである。

特に労働法関係は、違法が横行しているので、新しい法律を作るよりも、むしろ既存の法律をきちんと守らせることの方が重要である。番組の中でも、派遣業法では派遣期間は3年間で、それ以上雇う場合は正規雇用しなければならないという規定があるが、これを悪用して、2年11ヶ月目で解雇する企業が後を絶たないという指摘があった。このような脱法行為を、徹底的に取り締まることの方が先決ではないか。

派遣業界は、まさしく違法行為の温床である。現に私の登録している派遣会社は、一般派遣労働者派遣事業の許可さえ受けていない、いわゆる闇の業者だ。また、許可を受けている業者の中でも、禁止されているはずの建設業への派遣や、二重派遣が公然と行われている。

同様に、労働基準法も、守らない会社が無数に存在する。特に1~2割は存在すると思われるアウトロー系企業では、労基法でだけでなくあらゆる法律が無視されまくっている。こういった違法行為をきちんと摘発し、悪質な経営者は実刑判決を与え、牢屋にぶちこむ。違法に慣れ、たるみきった経営者たちの襟を正させることが、労働環境全体の改善につながっていくのである。

2008年7月13日 (日)

小さな暴君

 起業する人間は、サラリーマン時代のルサンチマンを溜め込んで、

「自分が社長になったら、今度は自分が楽をして、自由気ままに社員たちをこきつかってやろう」

と考えている連中が多いものです。

 たとえ性格の良い経営者でも、ワンマン体制に慣らされていくうちに、次第に感覚がおかしくなってゆくのです。

そういったケースを、私は何度も目撃してきました。要は、内外からのチェックの働かない状況の中では、経営者はすべからく「小さな暴君」と化し、人間が本来もっている狂気を、増長させていくのです。

これは、もちろん大企業でも起こりうることですが、対抗勢力がなく、社会的認知度も低く、マスコミの非難にさらされにくい中小企業において、より起こりやすい問題なのです。

また、労働組合方式は、大企業においては有効でしょうが、社員が2、3ヶ月おきに入れ替わる、社員4~5人程度の中小企業においては、組合など作れるわけがないのです。よほど執念深いに人間でもないかぎり、そんな会社にかかわりあっているよりは、別のところを探そうとします。

しかし、そのような諦めの良さが、この体制を維持させます。経営者の方も、それを見越して従業員を頻繁に入れ替え、その結果、被害を受ける従業員は、いつまで経ってもなくなりません。

評論家は、そんな企業は競争に勝てずに消えていくなどと、暢気なことを言うかもしれもせんが、このような形で経営を維持していける業種は、たくさんあるのです。

そして、理不尽な解雇をされた後、労働基準監督署に駆け込んでも、取り合ってくれない場合が多いのです。

例えば、監督署の職員はその企業の名前をすでに知っており、

「クレームの多い問題企業なので勧告しても恐らく従わないであろう、だから後は自分で裁判をやってくれ」

と回答されたことがあります。

しかし、ハローワークではその会社の求人票を、その後も引き続き掲載しているのです。これでは、ハローワークが悪徳企業の片棒を担いでいるのと同じです。

これは私自身の体験ですが、この場合、予告手当てなしの即日解雇という明確な労働基準法違反があったにも関わらず、行政指導できないという回答でした。

問題企業だからこそ、行政が強く介入しなければならないのに及び腰になって匙を投げてしまうというのは、なんたることでしょうか。他にも労働基準監督署で門前払いされたという例はよくあります。

中小企業の社長たちの多くは、労働基準監督署の勧告など大して気にとめていないし、それどころか監督署の調査員を追っ払ったことが、自慢話になっているくらいです。このような労働基準監督署の弱腰が、経営者の従業員に対する理不尽な行為を助長させていくのです。

2008年7月10日 (木)

食品偽装問題その他

 船場吉兆や飛騨牛偽装問題に引き続き、ブラジル産給食用鶏肉を国産と装った業者が書類送検された。マスコミの追及を受けた奥山社長が、「こんなことは誰でもやっている」と悪びれずに答えたが、私は拍手を送ってやりたい気分に駆られた。これはまさしく本音であり事実であろう。どうせ75日も経たぬうちに忘れてしまうであろうマスコミが、たまたま網にひっかかった獲物に対して、正論をぶつけたとしても、そんな批判に何の意味があろうか。中小企業を中心に、法律がないがしろにされているということは厳然たる事実であり、今回は、その氷山の一角が表面化したにすぎない。

 そして、マスコミの関心は、もっぱら「食の安全」にかかわる事柄にのみ集中しているが、私に言わせれば、 このように一部の企業が無法地帯化しているという点そのものが問題視されねばならぬのである。一つの違法行為をやっても何らおとがめなしという「成功体験」をもった経営者たちは、次々と同種の行為を繰り返すのである。だから、違法行為の裾野はもっとずっと広がっているはずである。それを掘り下げずして、「食の安全」という大衆受けする部分のみ拾い上げても、真の問題解決につながらないのである。

 この一連の騒動で、もう一つ印象深かったのは、飛騨牛偽装問題の時、従業員がカメラの前で社長に向かって「あなたの指示だった」と告発した場面である。

 それに対して、社長は「なにおっ」というような言葉を一言吐いただけで口をつぐんでしまったが、あれがもしカメラの前でなかったら、凄まじい罵声が飛び交っていたに違いない。

 あの社長は、耐震強度偽装のヒューザーの小島社長を彷彿とさせるが、この手のワンマン経営者は、従業員が一言楯突いたら即刻クビにするものである。だから、従業員が会社の違法行為を社長に向かって指摘することは、現実的にありえないのだ。あの従業員は、問題がここまで表沙汰になったことによって腹をくくったからこそ、あのような勇気ある行動がとれたのである。そうでなければただ解雇され、そのまま忘れ去られるだけで、その行為は何の意味ももたない。

 ところで、平成18年、「公益通報者保護法」が施行され、法令違反行為を労働者が通報(内部告発)した場合、解雇等の不利益な取扱いから保護されることが、法律によって規定された。

 しかし、このような法律ができてもむなしい気がする。なぜなら、もし経営者が、この法律を守らなかったとしても、事業者に対して刑罰や行政処分が課せられることはないからである。私の見てきた悪徳経営者たちは、違法行為などへでもないし、前科とてもほとんど意に介さない。彼らにとって執行猶予のついた有罪は無罪と同じであり、彼らが唯一恐れるのは実刑判決のみなのである。

 こういった連中がごまんといる中小企業業界において、こんな法律が有効に働くとはとても思えない。

 そして、日本は、法的制裁より社会的制裁の方が遥かに厳しい国である。もしヒューザーの小島社長のような経営者の下で働いている従業員が、内部告発したとしたら、その後も引き続きその会社にいられるわけがない。そして、そんな針の莚にいることを要求するような法律が、いかに非現実的であるかということを、立法担当者はよく思い知るべきである。法案を作った者は、どうせ身分保障がされている公務員であろう。彼らには、内部告発した社員が、孤立無援の中でどのような状況に追い込まれるか想像することさえできぬのであろう。

 そんな非現実的な制度より、経営者の違法行為を発見し摘発するための、もっとよい方法がある。それは、飛騨牛偽装問題で、カメラの前で語った従業員のように、退職を決意し腹をくくった元社員による情報提供を促し、積極的に吸い上げることである。

 この窓口として現在のところ、一番適しているのは労働基準監督署である。解雇された直後の者は、会社の行っている不正について、ぶちまけたい気分でいっぱいのはずである。たとえ、労働から離れた問題であったとしても、社会的に重要な事柄であれば、関連する役所に通報することが何故できないのだろうか。そうすれば、どれだけ多くの事件が早期に発見でき、未然に防げることだろうか。

 ところが、現実の労働基準監督署は、自分たちの本来の職務である労働法上の違反についてさえ、見て見ぬふりしたり、匙を投げたりしているのである。

「悪すぎて、自分たちとしては何もできない」

という労働基準監督署職員の言い草を、私は一生をわすれないだろう。

 方法はいくらでもあるのだ。早くなんとかせい。

2008年7月 5日 (土)

モンスタープレジデント

フジテレビで、ドラマ「モンスターペアレント」が始まった。モンスターペアレントとは、学校で教師に対して理不尽な要求をする親のことをさす。この問題が、社会的関心事となっている今日、まさに時宜を得た企画と言えよう。

第1回では、米倉涼子演ずる辣腕女性弁護士が、法律事務所所長の学友である教育長から依頼を受け、教育現場でモンスターペアレントの実態を目のあたりにする。その中で、一つ気になる台詞のやりとりがあった。親の行動が目にあまるので、その女性弁護士が法に訴え、その親に対して損害賠償請求を起こしたらどうかと言ったところ、熱心な指導主事(佐々木蔵之助)が、「教育の門外漢が勝手なことを言って、教育現場を混乱させるな」と怒鳴ったのである。

しかし、果たしてそうだろうか。このケースの是非はともかく、親の行動が常軌を逸し法的限度を明らかに越えた場合、法的手段を講じるというのは当然取られてよい選択肢の一つではなかろうか。ちなみにこのドラマでは、執拗な親の攻撃に悩んだ教師はノイローゼになりとうとう自殺未遂まで起こし、その結果退職を余儀なくされたのである。

先日の「朝まで生テレビ」でもこのテーマが取り上げられ、親の要求が恐喝に近いような場合警察を呼ぶべきだと発言した元警察官僚の平沢勝栄議員に対して、現場の教員が、すでに警察を呼んだことはあるが来てくれなったと答えている。教育現場におけるモンスターペアレントの問題は、すでに警察の介入を検討しなければならないほど危機的状況に至っているのである。

 佐々木蔵之助演ずる指導主事は、さらに「モンスターペアレントなんて言葉を使うな」と叫ぶが、それはこの問題が、法律的解決にはそぐわないデリケート性質を含んでいると言いたいがためであろう。しかし、こうした親の行動が、貧乏でもないのに給食費を支払わない親、大した理由もないの110番や119番する者、クレイマー等のそれと軌を一にしていることは、灯を見るより明らかであろう。このような行動に対して腫れ物に触るように対処していたら、ますます増長させ解決を遅らせるに難くないことは、考えてみるまでもない。

 最近では「モラルハザード」などという言葉もよく使われるが、約30年前、小室直樹が警鐘を鳴らした社会のアノミー現象が、より本格的に進行した結果とも考えられる。

 アノミーであるからには、何も教育現場に限った話ではなく、社会全体に広がり我々の意識を蝕んでいると言ってもよいだろう。そして、「モンスター」というレッテルを貼るには相応しい行動が最も頻々に起きているのは、中小企業の世界に他ならないのである。「モンスターペアレント」になぞらえれば、「モンスタープレジデント」とでも言ったらよかろうか。このような社長の存在は殊に珍しくもなく、それも昨日今日に現れたわけでもない。

 中小企業と言う、閉鎖的かつ無法地帯的性質が、独裁者としての社長の常軌を逸した行動をどんどんエスカレートさせ、手の付けられないものへと変貌させてゆく。船場吉兆や飛騨牛偽装の問題でも、ワンマン経営者のおぞましい素顔がのぞかれたが、あれは特殊なケースでも何でもない。

 そしてモンスターペアレントに象徴される現象は、今までは、中小企業と言う限られた領域に凝縮して発現されていた人間の狂気が、他の領域まで飛び火しだしたことを意味する。言わば、狂気の底上げである。これが臨界点を越えた時、日本社会は間違いなく崩壊し、滅びるだろう。

 そして、このように根っこにおいてつながっている現象に対処するときは、すべて同一の方法が取られるべきである。親だろうが、クレーマーだろう、社長であろうが、チンピラだろうが、法律を越えた時には厳格に罰を与えるしかない。要は道徳やモラルが用をなさなくなってきている以上、法律によってそれを補完するしかない。現在、考えられる有効な手立てはこれしかないのである。

 

2008年7月 3日 (木)

日本はヤクザ社会だ

 新銀行東京の累積赤字問題で感じるのは、行政が反社会勢力の存在を過小評価していたことであろう、と思われることである。責任問題ばかりが追及されているが、融資を受けた中小企業の実態についてはあまり踏み込んで語られていない。想像するに、債務者の中には、初めから銀行を騙して踏み倒すつもりでいた者が相当数いたと思われる。これには、暴力団関係者もいるだろうが、ごく普通の一般市民も含まれる。いわば、脳天気な性善説を信じた役人たちが、完全にしっぺ返しを受けたという形だ。そして、無駄な税金を投入したこと以上に問題なのは、これらの悪党連中にさらなる力を与えてしまったということなのだ。

 私がかつて勤めていた会社の社長は、定期的に借り入れをしては踏み倒しを繰り返していた。この一定期間というのは、要するに信用情報機関のブラックリストから抹消されるまでの間という意味である。以前大手金融にいた彼は、金融機関の手の内を知り尽くしており、回収担当者とのやりとりをゲームのように楽しんでいた。私が勤務していた時は、まだブラックリストに登録されていたので、それが明けるのをてぐすねひいて待っていたというわけだ。

 こうした人物を少数の例外者とする想定は、もはや通用しなくなりつつある。ちなみにこの社長は、暴力団とは全く関係はないし、一見したところ立派な紳士である。

 経済学で対象とするホモ・エコノミスは、合理的かつ合法的な行動をする人間であるが、この「合法的」というのはもはや見直さなくてはならなくなりつつある。日本のような「弱制裁社会」においては、違法行為を行ってもほとんどの場合、制裁の恐れがない。つまり、低リスクで資金が獲得できるわけだから、そのような行動はむしろ経済的合理性が高いと言えるのである。

 また、内的規範の弱いわが国の文化的特質は、そのような行動へと駆り立てやすいとも言えるだろう。よく日本は、罪の文化ではなく恥の文化と言われるが、大企業ならマスコミによってしばしば叩かれるであろうが、小さな企業の場合、公表されて恥をかくリスクもほとんどないということになる。そして、経済的合理性が高い行動であるがゆえに、彼らは成功への階段を駆け上ることとなり、その結果、そこで働く者たちは、それを手本として学ぶ。

 かつて折口信夫は、武士道をごろつきの道徳と呼び、最近では菅野覚明が、「武士道の逆襲」の中で、武士とヤクザの類似性について指摘している。ヤクザが支配階級として、1000年も君臨した日本社会において、我々のDNAの中にアウトロー的素質がふんだんに宿っているとは言えないだろうか。そして、「弱制裁社会」の中で、アウトロー的手法による成功を目の当たりにした者たちはその潜在的傾向を開花させ、オセロゲームのように己の価値観を白から黒へと反転させていくのである。

 もちろん、黒へと反転させることのできない者たちもいるであろう。しかし、多くの場合、行政に告発しても見て見ぬふりをされるのが落ちである。となれば、怒りの矛先をどこに向ければいいのであろうか。「弱制裁社会」の行きつく果ては、もしかしたら「テロ社会」かもしれない。秋葉原の事件も、その予告のように思われてならない。

 そういえば、現都知事は、かつてヤンキーの代弁者として文壇に華々しくデビューした人である。皮肉な話である。

2008年7月 1日 (火)

外国人イジメをするな!

 労働基準監督官の実態について調べたいと思い、図書館のHPで検索したが見つからないので、「労働基準監官の仕事がわかる本」(法学書院)を借りた。これは、「公務員の仕事シリーズ」というツノガキが示すように、これから公務員を目指す若者たちのために現役の労働基準監督官が自分たちの仕事の内容について自ら語ったものである。当然当たらず触らず内容になるのはやむを得ないが、それでも注意深く読んでいくと、思わぬ発見があるものである。

 労働基準法の前身が工場法であるせいか、ヘルメット姿の労働基準監督官の姿や工場風景の写真が随所に掲載されている。

 そして、労働基準監督官が摘発した問題企業の事例報告があり、これもほとんど工場のケースであるが、その中に例外が2つだけあった。そして、これが2件とも、外国人のケースなのだ。一つはパキスタン人が経営するインドカレー店における給与未払い、もう一つは、外国人(国籍は書いていない)が経営する英会話学校における、これまた給与未払い事件。後者では、「被疑者は日本語を理解し、しゃべれるにもかかわらず、英語でまくし立てて、何とか煙に巻こうとする、この外国人の手口にはいつもうんざりさせられる……」(p60)などと、ハードボイルド調のコメントまで寄せている。そして、あたかも、日本における労働法違反を起こす経営者のほとんどが、外国人であるかのような印象を与えているのだ。

 しかし、私が解雇予告手当てなしの即日解雇という明確な労働法違反で、労働基準監督署に訴えに行ったとき、面接官は、その企業名をすでに知っており、あまりにもクレームが多過ぎるので行政指導では対処できないと言って、門前払いしたんだよね。恐らく、それらのクレームの中には、その社長が筋者だという情報も含まれていたのだろう。要は、労働基準監督署はヤクザに弱いくせに、相手が外国人となると居丈高になってるんじゃないかな。

 日本国内の外国人経営者なんてほんの一握りに過ぎないはずだ。その連中が、日本の労働法犯罪を代表しているなんてこと、あるわけねえだろうが。

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