金持ちは悪だ
私は「オーラの泉」のファンである。先日、同番組のゲストに假屋崎省吾が登場し、自慢の豪邸を披露し、そこで番組が進行した。世界中の美しい物を自分の目で確かめて集めたというだけあって、まるでヨーロッパの王侯貴族のように、豪華なシャンデリアや美しい家具調度で埋めつくされた部屋を次々に案内した。そして、美輪明宏や国分太一も、假屋崎の目利きぶりを称賛した。
しかし私は、この光景に少し違和感を覚えていた。假屋崎は、パートナーと二人だけでここに住んでいるという。そして、各室に大きなシャンデリアがあるため、電気代だけでも月に10万円はかかるそうだ。江原啓之は、この中で必要な部屋は三つだけだなどと指摘していたが、贅沢にしてもちょっと度を越しているのではないだろうか。
ちまたでは、野宿し明日の生活さえ保証されない人々が、次々に命を落としている。そういった状況の中で、王侯貴族のような贅沢三昧の暮らしをすることが果して許されるのだろうか。美輪は、苦労してきたことに対する神様のご褒美などと呑気なことを言っているが、美輪は、貧しい人々への応援歌である「よいとまけのうた」を歌っていたのではないのか。たとえ悪辣な手段で儲けた金でなくても、一個人への行き過ぎた富の集積は、やはりそのこと自体が非難に値すると思う。
実は、この「オーラの泉」の前日に放送された「朝まで生テレビ」の中で、私はある懐かしい言葉を耳にした。
それは、
「金持ちは悪だ」
という言葉である。
発言者は森永卓郎である。これに対して堀紘一が、すかさず、「あなた税金5000万円以上払っているということは、年収は1億以上ですね」とつっこみを入れていたが、森永は、「この中では僕が一番税金を払っているかもしれませんね」と平然と答えていた。
私は、森永が高収入を得ているからと言って、言行不一致だとは思わない。森永は一貫して格差社会を助長する政策を批判してきた。そして、現実が彼の言った通りになり、その結果テレビの出演回数が増え、本も売れるようになっただけの話である。むしろ、金持ちになってもなお「金持ちは悪だ」と言える潔さに敬意を表したいくらいだ。
「懐かしい」と言ったのは、一昔前は、「金持ちは悪だ」という言葉にそれほど奇異な印象を受けなかったからだ。それは、共産主義社会への夢がまだついえていなかった時代のことである。マルクス主義は、労働者から搾取する資本家、すなわち、金持ちは悪であるという観念をもたらした。また、当時はこの思想を掲げる労働組合も強かったので、社会通念とは言わないまでも、金持ち悪徳説に共感する人々も多かった。
ところが、ベルリンの壁が崩壊し、共産主義の本家であるソ連や中国が体制を資本主義よりに変えることによって、来るべき理想社会の目標を失い、金持ち悪徳説もまた衰退していったのである。
近年、新自由主義や金融資本主義が横行し、マネーゲームに明け暮れる連中が途方もない大金を手にする時代になってしまった。これにより、金持ち悪徳説が再び息を吹き返しつつある。そういった中で、森永の言葉は説得力を持ち、心に響くのである。
ところで、金持ちを悪徳とする見方は、資本主義社会固有のものであろうか。もちろん江戸時代にも、ネズミ小僧のように、大商人の蔵から金品を盗みだし、庶民にばらまく盗賊は義賊としてもてはやされた。
しかしさらに時代を遡れば、一個人に過剰な富が集積することを忌む観念は、世界中に存在したと思う。
例えば、文化人類学では、ポトラッチという行動が観察されている。ポトラッチとは、チヌーク語で「贈与」のことを意味し、北太平洋沿岸の北米インディアンに見られる。部族の中で地位や財力のある者は、それを誇示するために、高価な贈り物をする。すると、贈られた者はさらにそれを上回る贈り物を返し、それを繰り返す。これはどんどんエスカレートしていくという。
かつて栗本慎一郎は過剰‐蕩尽理論を主張し、このポトラッチに着目した。そして、このような行動原理は、現在の経済活動にも影響を与えていると指摘している。日本でもかつて、御柱祭りなどでは、親戚や知人を招いて大盤振る舞いするという習慣があったが、これなどもポトラッチに似ているのではないか。
網野義彦によれば、贈与には、通常原始的な宗教観念が伴うということである。例えば、富を集積すると邪気も蓄積され、富をすべて放出しつくさないと、邪気によって、病気や不幸になったりするといったものだ。
もちろん迷信に違いないが、それでも、富の集積を忌む観念は、貧富を是正し平等化を促進する役割も果たしていたはずである。一方、この観念が、ネガティブな方向に働くとユダヤ人差別につながったりする。
ユダヤ人差別について一言だけ言うと、阿部謹也によれば、ユダヤ人は昔から差別されていたわけではなく、13世紀頃までは、むしろ優秀な民族としてヨーロッパ社会の中で尊敬されていたという。それが、重商業主義(15~18世紀)の発展に伴い、彼らを賤視する傾向が生まれてくる。そして、早い段階からユダヤ人には金融業者が多かったという。シェークスピアの「ヴェニスの商人」が発表されたがのが、1590年代なので、その頃にはすでにユダヤ人差別が定着していたことになる。
ところで、日本においても、ポトラッチ的なものがあったかと言えば、私はあったと思う。先ほどの御柱祭の例もそうだが、江戸時代に粋とされた「宵越しの金は持たない」などとも共通するのではないか。ポトラッチは、蓄積された財を一気に消費することである。「宵越しの金は持たない」は、一日汗水流して働いた金を一晩で使い果たしてしまうことをさす。
江戸研究家の故・杉浦日向子は、引っ越しが大好きで、引っ越しの時多くの家財道具をいっぺんに処分してしまい、そのことが快感なのだと述べていた。まさしく粋を実践していたわけだ。
近代社会は、ポトラッチ的風習や粋の精神を不合理であるとして退けたが、そのなれの果てが強欲資本主義である。強欲資本主義の本場アメリカでは、破綻した投資会社の役員が何十億もの報酬を得ているという。彼らは、このような金に邪気が宿るとはもちろん考えないだろう。一方、ビル・ゲイツやジョージ・ソロスは慈善活動に熱心なようだが、彼らには昔の人の感覚が少しは残っていたのかもしれない。
金持ち悪徳説は、復権されるべきなのだ。


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