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2009年7月 6日 (月)

肥大化したヒューマニズム

大分以前のことだが、手塚治虫の漫画「マグマ大使」の実写版がテレビで放映されたことがある。その中に、少年が怪獣の人質にされたため、本来なら簡単に勝てる相手にマグマ大使が苦戦するという一話があった。しかし、アース(神のような存在)はマグマ大使に、たとえ人類が滅亡しても絶対に少年の命を犠牲にしてはならないと厳命を下す。たった一人の命を救うことと人類全体を天秤にかけることは、おかしいのではないか? 私は、子ども心に違和感を覚えていた。

1977年、日本赤軍が日航機をハイジャックし、バングラディッシュのダッカ空港に強制着陸した後、日本政府に対し身代金16億円と日本に勾留・服役中の赤軍派9名の釈放を要求した。当時首相だった福田赳夫は「人命は、地球より重い」と言って、この要求を呑むという決断を下す。

その後、ドイツでハイジャック事件が起きた際には特殊部隊を突入させ犯人グループを制圧したため、日本政府の対応は手ぬるいと批判を浴びたが、当時の福田首相の判断はむしろ一般的であった。しかし私がひっかかったのは、そのことではなく、福田首相の言葉である

人命を尊重することに異論はないが、「人命は、地球より重い」というのは、いくら何でも言いすぎであろう。言葉尻をとらえるつもりはないが、地球に67億の人口があるとすれば、単純計算すれば、地球の価値は一人の価値の67億倍でなければならないはずである。たとえヒューマニズムであっても、人一人の価値を地球大にまで膨張させるというのは、どこか病んでいないだろうか。

これらは、ヒューマニズム論じる上で象徴的なエピソードだと思う。これを私は、「肥大化したヒューマニズム」と呼んでいる。言葉を替えれば、人類の特権意識と言ってもよい。

ヒューマニズム(人間中心主義)というからには、これは人類のみに適用され、動物や他の生命体は対象外に置かれることになる。だから、生命尊重ではなく、あくまで人命尊重なのだ。そして、ヒューマニズムのもつ重要な側面は、人類のみを特権的存在と見なし、他の生命から区別することでもある。最近、地球環境問題への関心が高まり、自然との共生が叫ばれているが、人間を地球の中の一生命体ととらえる見方とヒューマニズムとは明らかに矛盾する。共生思想は、人類の特権性を放棄することにつながるからだ。

具体的な例を挙げよう。我々は、血のしたたるステーキを何の躊躇いもなく口にする。そして、この背後にある、家畜の大量虐殺という事実に、目を向けることはない。しかし、牛や豚には、犬や猫と同程度の知能があり、それでも無感動でいられるというのは、人類だけが特別という意識、すなわちヒューマニズムによるものだと私は解釈している。

ある小学校教師が、クラスで豚を飼育し、卒業時にみんなでそれを食べるという教育実験を行った。これは、「豚がいた教室」(主演:妻夫木聡)として映画にもなった。いのちの問題を考える上で興味深い試みだと思う。

何を馬鹿馬鹿しいと思う人がいるかもしれないが、少なくとも大昔の狩猟民族には、狩りの獲物の肉を食べるときに、後ろ髪引かれる思いがあった。

そして、これを思想的問題としてとりくんでいる者がいる。中沢新一である。オウムに協力したことでマスコミや学会からパッシングを浴び、しばらく沈黙していたが、最近、次々と著作を発表している(「精霊の王」講談社 他)。これらの著書で訴えている内容は、一言で言えば、「動物を殺すな」ということである。かつてニューアカデミズムの旗手としてもてはやされた中沢にしてはあまりにもシンプルで、ちょっと意外に思われるかも知れないが、彼の関心が今ここにあることは間違いない。

中沢は、この問題を論じる際、文化人類学的知見を用いている。そして、自然と人間とが対等に近い関係性を持っていたかつての世界観を「対称性」と言い、現代人は「非対称性」に陥っており、ここに現代文明が抱える病根があると指摘する。

著書では、主にアメリカ原住民など、狩猟民の神話が紹介されている。狩猟は、弓矢や槍をもって行われるが、この程度の武器では、人間は動物に対して圧倒的優位に立つことはできない。そのため、返り討ちにあって殺されることもしばしばある。そして、獲物を食べる際、自分も殺される危険性があったのだから食べることを許してほしいと祈るのだという。対称性とは、このような人間と動物との力関係のことを意味する。

イルクーツクの神話によれば、ある日、このバランスを崩す決定的な出来事が起きる。すなわち、突然恐ろしく斬れる鋭利な刃物が出現し、人間はそれを使って動物たちを次々に殺しはじめたのだ(神話では動物同士の争いになっているが)。この鋭利な刃物というのが、実は日本刀だったのだ。年代は忘れたが、恐らく11~13世紀頃のことであろう。これは、当時から日本とこの地域に交易があったことを示唆するが、この点については、中沢の叔父、網野義彦の著作に詳しい(「日本社会の歴史」岩波新書)。

ところで、中沢のいう対称性の世界観を見事に実践した日本人がいる。それは星野道夫である。星野は写真家で、アラスカで自然や動物の写真を撮り続けた。そして、アラスカを度々訪れ、現地のエスキモーとも交流を深め、彼が最初に発表した写真集「GRIZZLY」は大反響を呼んだ。その後も写真集やエッセイを書き続けたが、1996年、皮肉にもグリズリーによって命を奪われるのである。享年44歳。まさしく対称性の世界に生きた生涯であった。

我々の自然の脅威から隔絶された非対称性の世界に生きている。そして、その中で、ヒューマニズムや人類の特権意識もまた肥大化していったのである。対称性の世界では、自然に対して謙虚になるが、それは人間の自然に対する相対的価値の低下をも意味する。まかり間違っても、「人命は、地球より重い」などという発想は、生まれてこないのだ。

もう一つ、肥大化したヒューマニズムは、その欺瞞性においても批判されるべきであろう。たとえ絵空事であっても、現実を変えていく力になれば、それなりに評価もできよう。しかし、現実には、「人命は、地球より重い」どころか、最低限の権利である生存権すら否定されているのだ。それは、今巷に溢れているホームレスの人々の実態を見れば、明らかであろう。

憲法で生存権と一番関連の深い条文は25条である。すなわち、

「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

である。

憲法25条には、朝日訴訟という重要な判例がある。

1957年、国立岡山療養所に入所していた朝日茂氏が、月額500円の生活保護給付金では生活できないため、憲法25条に違反するとして厚生大臣を相手どって訴訟を起こした。第一審(東京地方裁判所)では原告が全面勝訴したが、第二審(東京高等裁判所)では敗訴した。その後上告中に朝日氏が死亡してしまったため、養子夫妻が裁判を続行しようとしたが却下されてしまった。

二審の東京高裁が原告の請求を棄却した根拠は、いわゆるプログラム規定説である。プログラム規定とは、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではないとする考え方だ。要するに、憲法25条はあくまで努力目標に過ぎず、具体的に社会保障をどう実施するかは厚生大臣が決めてよいことになる。その結果、厚生省の監督下にある各自治体の生活保護担当者が給付を認めるかどうかを勝手に判断することができ、憲法25条は骨抜きにされてしまったのだ。

各自治体の担当者の胸先三寸というのは、けして大げさではない。あるケースワーカーは、生活保護の希望者が3回頭を下げてきたら初めて話を聞いてやるなどとうそぶいているそうである。これは、知合いの生活保護担当者から直接聞いた話なので間違いない(もちろん言った本人ではない)。

1957年当時は、戦後間もなくで日本も貧しかったので、裁判官には、生活保護費をどんどん支給していったら財政が破綻するという思いがあったのであろう。ならば、せめて80年代の日本経済の絶頂期に、プログラム規定説を見直す判決が出てほしかった。

今日、野宿する人で溢れ、彼らの生存権があやぶまれ、実際に多くの人が命を落としている。冬の寒さを考えれば、死なない方が不思議なくらいである。

ホームレスの支援活動をしている人の話によれば、65歳以上でないと生活保護を受けるのは難しいということだ。法令で明記されてはいないが、そのような暗黙の了解があるらしい。しかし、リストラされた派遣労働者のほとんどはこの年齢に達していない。ホームレス生活者の生存権保障に関する施策は、おそまつという他ない。

その代わり何がなされているのかと言えば、公園を夜間閉鎖してホームレスの人々を締め出したり、ベンチにわざと凸凹をつけ、寝せないようにすることだ。

「人命は、地球より重い」などという高邁な理想を掲げる前に、まず目の前の現実に取り組んでほしい。

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