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2009年6月22日 (月)

プロレス論(続き)

興が乗ってきたので、プロレスについてもう少し……。

ミスター高橋は、長年新日マットのレフリーとして活躍してきただけに、暴露本とは言え、『流血の魔術 最強の演技-全てのプロレスはショーである-』には示唆に富んだ指摘が多い。ミスター高橋がなぜこのような本を書くに至ったかと言えば、新日が彼の功績に報いず無慈悲に使い捨てたからである。新日をクビになった彼は、その後警備員になったという。それによって、多くのファンを失うことになったのだから、全く馬鹿な話である。

ところで、ミスター高橋によれば、レスラーの評価基準には「強さ」と「うまさ」の二つがあるという。強いレスラーの代表が坂口征二や長州力で、坂口は柔道で、長州はアマレスで(ただし、韓国代表)、それぞれオリンピックに出場している。一方、うまいレスラーの典型は藤波辰爾である。藤波は、中学卒業後自動車整備工場で働いた後、新日本プロレスに入門したが、その後カールゴッチ杯で優勝して頭角を現し、端正なマスクと華麗な技で人気を博した。後年、長州と名勝負を繰り広げた藤波だが、格闘家としての実力はいまいちで、ガチンコ勝負なら入門1年目の新人にすら勝てないだろうとのことだ。

その点、アントニオ猪木は、「強さ」と「うまさ」を兼ね備えた選手で、それゆえ長年トップの座に君臨することができたのだ。しかし、その猪木ですら、ウィリアム・ルスカのように、日本人とはかけ離れた肉体をもつ外人レスラーには歯が立たず、そのことは猪木自身が一番よく知っていたとのことである。(したがって、猪木・ルスカ戦は100パーセント八百長だそうだ)

日本の場合、上に立つ者にはやはり「強さ」が必要で、馬場や猪木が長い間社長の座につけたのも、実力的裏付けがあったからに他ならない。

女子プロレスの話だが、ジャパン女子プロレスのメインエベントで、神取忍がジャッキー佐藤をボコボコにしてしまったことがある。力道山・木村政彦戦を彷彿させる凄惨な試合だったという。当時ジャッキーはジャパン女子プロレスの中心選手だったが、不満があったのか、神取が筋書き無視していきなりセメントを仕掛けたのだった。この試合がテレビで放映されることはなかったが、スポーツ紙によれば、ジャッキー佐藤は泣きながらリングから逃げ去ったという。このようなことがあるため、弱い者がトップを張るわけには行かないのだ。

しかし、ショウビジネスに徹するアメリカでは、「強さ」は全く評価の対象にはならず、「あの選手は強い」などと言っても、「それがどうかしたのか?」といった顔をされるという。この辺に、日米プロレスの違いが垣間見られる。

そして日本では、「強さ」の神通力は、レスラーたちだけではなく、背広組と呼ばれるフロントにまで通用するようだ。猪木モハメド・アリ戦の仕掛け人として、また新日黄金期の立役者として有名な新間寿(元営業部長)は、その著書の中で、自分が「社長」のことを心から尊敬する理由として、アクラム・ぺールワン戦のことを挙げている。

1976年にパキスタンのカラチで行われたこの試合には、私も鮮烈な印象を持っている。20世紀初頭、インドのグレート・ガマは、アメリカの名レスラー、スタニスラウス・ズビスコを僅か数分で打ち破るという快挙をなし遂げたが、ガマを輩出したインドは、隠れた格闘技大国でもあった。

ガマのインド式レスリングの流れを汲むぺールワンは、当時パキスタンの英雄であった。そして、4万の熱狂的観衆が見守る中、猪木は試合数分後、ぺールワンの腕をアームロックで文字通りへし折ったのだ。今も、ブラブラと不自然な方向に揺れ動くぺールワンの腕の映像がくっきりと目に焼き付いている。新間は、この時リング下にいたが、敵意に満ちた群衆の目にさらされ、本当に殺されるかもしれないと思ったそうだ。そして、この時の経験があったからこそ、猪木の女房役として一生捧げようと誓ったのだという。

しかし、この本が出版されて間もなく、新間は猪木にあっさり裏切られる。新間は、新日プロレス営業部長を解任され、その後、前田日明らによるUWFの旗揚げに参加する。しかし、このような仕打ちにあってもなお、スポーツ新聞紙上を通して猪木にラブコールを送り続けたのだ。この記事を読んだとき、こいつはホモではないかと疑ったくらいだ。

猪木は人を裏切ることが平気なタイプのようで、このようなエピソードは他にもある。しかし、それでも新間の未練絶ちがたかったのは、ひとえに「強さ」に対する本能的な憧れからであろう。猪木には多くの人間的欠陥があったが、それでも新日を牛耳ることができたのは、やはりレスラーとしての実力を誰もが認めざるを得なかったからではないか。

三沢光晴がノアの社長として求心力を持ちえたのも、彼が真に優れたレスラーであったからだ。足利工業大学付属高校レスリング部で国体優勝経験もあり、タイガーマスク時代の空中殺法を思い起こせば、彼が人並み外れた身体能力の持ち主であったことは疑いえない。

三沢はこれに加え、猪木にはない美質があった。三沢は人にやさしく、後輩思いだったという美談にことかかかない人物である。馬場の死後、多くの選手たちを引き連れて全日を離脱したが、それもオーナーだった馬場元子が、当時社長であった三沢にすらボーナスを10万円しか支払わず、選手たちの不満はピークに達していたからだという。そんな三沢であればこそ、プロレス界が低迷する中、他団体との交流においても中心的役割を果たすことができたのだろう。三沢を失ったことによるプロレス界の損失は計りしれない。

ところで、三沢光晴の訃報をめぐるニュースの中で、ある懐かしい人物の顔を目にした。それは、ノア副社長としてコメントしていた百田光雄である。いわずと知れた力道山の次男である。しばらくプロレスから離れていたので、今はノアにいるとは知らなかった。

全日時代の百田光雄は、「6時半の男」として人気の高い前座レスラーであった。兄の義浩とともに百田兄弟として名を馳せたが、兄はすでに他界している。

レスラーとしての、百田光雄の評価は高く、持ち味豊かないぶし銀ファイトが多くのファンを魅了していた。しかし、体に恵まれなかったため、一度もメインエベンターになることなく、地味なポジションのまま、若手の育成に力を注いできた。力道山という偉大な父を持ちながらも、トップの座を張れるだけの実力がなければ、縁の下の力持ちとなるより仕方がないのだ。

最強と謳われたジャンボ鶴田でさえ、肝炎発病後は前座レスラーに甘んじている。そして、ジャイアント馬場の死後、その後を追うかのように静かにこの世を去った。これがプロレスなのだ。

最近、政治家の世襲制の話題で持ちきりだが、八百長と言われつづけたプロレスは、世襲とは最も縁遠い世界なのではなかろうか。恵まれた肉体、身体能力、スター性、三拍子そろった天分を親から受け継ぐことは不可能に近い。坂口憲二は有名になったが、俳優としてである。

才能なき者が、親の七光りだけでスターダムにのし上がるようなことは、プロレスではありえない。プロレス界におけるストイシズムを、政治家は見習ってほしい。

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