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2009年6月 7日 (日)

殺人について

殺人に関しては、コリン・ウィルスンのような文学者の考察や事件記者のルポルタージュのようなものはあっても、本格的な学問研究はほとんどなく、まだ緒についたばかりと言えよう。これは、長い間この研究をタブー視する傾向があったからではないだろうか。同研究の先駆者である長谷川眞理子にしても、これをテーマに扱った単著はまだなく、翻訳を一冊手がけているだけである。(M・デイリー他『人が人を殺すとき―進化でその謎をとく―』新思索社)

長谷川の視点は、この問題に進化生物学の立場からアプローチするというもので、これは、殺人を動物における殺戮と同列に論じるということを意味する。

昔は、同種間における殺戮は存在しないと考えられていた。例えば、南極のペンギンの群れが海にさしかかると、一匹が海面に飛び込むという。もし海の中にペンギンの天敵であるアザラシなどがいれば、その一匹だけが犠牲になればすむからだ。これを利他的行動という。勝手な憶測だが、前期近代の村落社会において行われた人柱や人身御供なども、これと類した現象ではないか。

いずれにせよ、同種間での殺しあいはないというのが定説だった時代がかつてあり、ノーベル賞受賞者のコンラート・ローレンツなどは、『文明化した人間の八つの大罪』(新思索社)の中で、戦争や経済競争、環境破壊の存在しない動物社会を、あたかも楽園のようにとらえていた。しかし、この夢想は彼自身が重視した行動観察によって覆される。動物社会においては、人間とは比較にならぬほどの頻度で、同種間における殺戮が行われていたからだ。

例えば、新しくリーダーになったライオンの雄は、前リーダーの子どもを殺す。これは、子ライオンの死亡原因の23割にも達するという。このような行動は、己の遺伝子のみを増殖させていくという、利己的遺伝子の立場から考えれば容易に説明がつく。

日本でもかつては、戦に負けた武将の子どもたちは殺されたが、それはその子が成長して敵討をされないためであると言われ、平清盛は平治の乱で源義朝に勝利したが、その際頼朝や義経を殺さなかったことが、平家の滅亡につながった。しかし、このような武士の掟は、上記のようなライオンの行動と関連づけることも可能なのではないか(敵討を防げば、すなわち、自分の遺伝子を増やすことにもなる)。今でも、連れ子の女性と結婚した男性が、妻の前夫の子どもに対して虐待を加えたり、時には殺してしまうという事件が起きているが、この時の夫の心理の背後には、このような原理が隠れていたのかもしれない。

そして、動物行動に淵源する殺人は他にもあるであろう。それをもっと研究する必要があるのだ。

『人が人を殺すとき―進化でその謎をとく―』には、インドシナやパブアニューギニアで見られる「アモク」という興味深い文化現象のことが紹介されている。「アモク」の状態になった男性は、突然暴れだし周囲の者を無差別に殺害していく。これには健忘症が伴い、犯人は事件後自分がやったことを全く覚えていない。「アモク」にかかるのは35歳以下の男性で、何らかのコンプレックスを持っている場合が多いという。また、周囲に親戚がいる場合には、「アモク」は起こらない。

「アモク」は、日本で言えば狐憑きなどと類似した現象であろう。また、横溝正史の『八つ墓村』のモデルとなった津山事件(1938年)とも似ているかもしれない。この事件の犯人・都井睦雄は、犯行後自殺してしまうが、当時21歳であり、結核のため徴兵検査に不合格し、村八分のような扱いを受けていたという。また、昨年の秋葉事件との類似性も指摘できるかもしれない。

ところで、現代の刑法は、近代法である以上近代思想のパラダイムの中に位置づけられている。それを一言で言えば、ヒューマニズムということになる。この思想によれば、人間の本質は真・善・美であり、犯罪はこのような人間本来のあり方からの逸脱ということになる。それゆえに、改悛や更生・矯正が、刑事政策の主要な課題となっていくのであろう。人間本来の姿に戻りなさいというわけだ。

しかし、先ほどのライオンの例のように、これは人間で言えば嬰児殺しに当たるが、そこには真・善・美もくそもない。ただ遺伝子の命令に従って、己の遺伝子を淡々と増やしているにすぎない。

だから、こういった内心の自由に踏む込むような刑事制度は、改めた方がいい。もちろん、すべての人間が利己的な遺伝子の命令に従ったとしたら、社会は成り立たなくなるであろうから、調整機能としての掟は必要である。しかし、それは人間的本質から逸脱したことに対する制裁ではなく、単に社会の行動規範から逸脱したことに対する制裁であれば十分であろう。この場合、掟は厳しければ厳しいほどよいのである。

前回触れた荒川沖駅通り魔殺人にしてもそうだが、最近は、犯人が裁判で謝罪しないケースが増えているような気がするが、これはある意味でよい傾向だと思う。その方が犯罪の本質を浮かび上がらせることができるからだ。また、心にもない口先だけの謝罪によって、被害者感情が癒されるとも思えない。被害者感情を慰藉するための唯一の方法は、犯人に対して可能なかぎり厳しい刑罰を与えることしかありえないと思う。復讐もまた、動物界と共通の基底をもつ、本能の一型に他ならないと考えるからだ。

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