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2009年6月15日 (月)

祝祭としての刑罰

私が日本の刑事制度についていつも感じるのは、言いようのない陰湿さであり、ホンネとタテマエの乖離である。

憲法36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対に禁ずる」と明記されているにもかかわらず、志布志事件で明らかなように、取り調べ中に心理的拷問が行われていた。この事件で報道された行き過ぎた捜査は、直接的暴力以上に人の心に深い傷を与えるものだ。

また、「疑わしきは被告人の利益に」などと言いつつ、周防正行監督の映画「それでもボクはやっていない」を見ればわかるように、大した合理的理由もなく、有罪判決が次々に出されていく。「行列のできる法律相談」の中で、北村弁護士は、痴漢の罪を着せられそうになった時の対処法として、「全速力でその場から逃げ去る」と答えている。つまり、専門家の目から見ても、警察や検察や裁判所は信用できないということだ。また、同番組で以前丸山弁護士は、裁判官と検察官はいわばチームのようなもので、いつも同じ顔ぶれで、ベルトコンベアーの流れ作業のように事件を処理していると述べていた。

また、憲法76条には裁判官の独立が高らかに謳われているが、裁判官の人事権は、最高裁判所、実際には法務官僚が握っている。「狂った裁判官」の著者で、日本で二例しかない再任拒否をされた元横浜地裁判事の井上薫も、多くの裁判官が出世のことを考えながら判決を下していると述べている。

長沼ナイキ基地訴訟で自衛隊に違憲判決を下した福島重雄判事は、事件の翌年、東京地裁の手形担当に異動となり、停年時は家裁判事として退官している。こんな見え見えの懲罰人事がまかり通れば、己の良心に従って判決を下すことなどできっこないのだ。憲法で謳われた裁判官の独立性など、所詮絵に描いた餅にすぎない。なお、福島元判事は、この4月に事件を回顧した著書を出版している(「長沼事件平賀書簡 35年目の証言、自衛隊違憲判決」 日本評論社)

このような陰湿さは、刑罰においても言える。

多くの伝統社会において、刑罰には、祭りと似たような機能があったのではないか。衆目環視の中で刑を執行することは、共同体との関係性の回復といった側面もあったように思われる。江戸時代に行われていたという市中引き回しとかむち打ち等は、まさにそのようなものであったはずだ。故に、現代のようにただ密室に閉じ込めておくよりカラッとしており、見せしめの意味がある一方、社会復帰の点でも効果的であったのではないか。大勢の前で恥をかかせられた者に対しては、許しの感情が自ずと湧いてくるものだ。

中国では2007年まで公開処刑が行われていたというが、一方、社会の受入は日本より遥かにスムーズで、前科のある知事や経営者がたくさんいたという。日本とは異なり、獄中にいたという経歴が社会的にマイナス評価につながらないのだ。(王雲海「日本の刑罰は重いか軽いか」集英社新書)

人の犯した罪が、その社会の一定の許容範囲を越えた場合には、死刑が執行されねばならない。しかし、これに関しても密室で行われた方が人権に配慮されているなどとは、必ずしも言えないように思う。もしイエス・キリストが磔の刑に処せられなかったら、キリスト教の歴史は異なったものになっていたろう。ヨーロッパ社会は後年キリスト教を受容することになるので、その結果、権力と戦った聖者としてのイエス像が確立される。一方、石川五右衛門のように、純然たる悪党でも、処刑は人生の幕引きに花を添えるものである。もし石川五右衛門が現代に生きていたとしたら、密室の中で絞首刑にされるのと、大勢の前で釜茹でにされるのと、どちらを選んだであろうか。

現代ではプラバイバシーの保護が尊重されるあまり、何でもかんでも密室化することが善であり、人権に配慮することだと思われがちである。その結果、公開処刑という、癒しや関係性の回復、道徳教育、そして祝祭の機能を持つ場が一切否定されてしまったのである。公開処刑にはもちろん残虐で非人道的な面もあるが、本人の同意さえとれば、今日においてもこのような選択肢があってもよいと思う。もし麻原彰晃の意識がはっきりしていれば、真っ先にこのような道を選ぶべきだろう。

また、ガンも本人に告知するようになりつつあるが、死刑の執行日も死刑囚に早めに伝えるべきではなかろうか。いつ呼ばれるかわからぬ中で日々怯えているよりも、その方がよっぽどましだろう。そして、執行方法は一律に絞首刑だが、それも本人に選択させたらどうだろうか。L.ソンディのように、死の様式を無意識の根源的衝動と捉える心理学者もいる。死に方という人生最後の選択ぐらい、本人にさせてやるのが本当の意味で人道的なのではないか。これは何も公開刑のことばかり言っているのではない。もしこのような選択を与えたら、薬物死を望む者が多く出てくるのではないか。

現代の刑事制度は陰湿で、人間の生理とかけはなれたものになってしまっている。近代以前の制度から、もっと学ぶべきところがあるような気がするのだ。

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コメント

我が国には本音と建前が溢れ返っている。刑罰も世のため人のためではなく、監督する組織の存在のためにある。刑務所も裁判所もその組織の存続のため、もっと言えばそこで働く人のために存在する。他の全ての組織・結社も程度の差があれど、同じようなもの。どの程度かが重要ではあるけれど。

中年の私は、全てのことに疑ってかかる悲しい習性が身に付いてしまった・・・。

コメントありがとうございます。同感です。組織の論理が強調されるのは嫌なものですが、行政や裁判所については、もう少し何とかしてほしいものです。

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