ホームレスという生き方
今日の「サンデージャポン」で、ブリトニー浜田の特集があった。ホームレスギャル漫画家ということで、前から気になっていたのだが、今回、漫画家としても、藤子不二雄Aやちばてつやからも認められる程活躍しているということを知った。もちろん彼女の漫画は読んだことがないので、作品に対する批評は差し控えるが、私が興味を惹かれたのはその点ではない。すなわち、漫画家としてデビューして3年経ち、ビッグコミックスピリッツに連載を持ち、小学館から単行本(「パギャル」)を出しているということは、すでにそれなりの収入があるはずだが、それにもかかわらず、今でもネカフェ(ネットカフェ)生活を続けているということだ。現在は不況のため、不動産価格は値下がりしており、家賃が3万円ぐらいのアパートなど探そうと思えばいくらでもあり、彼女の活躍ぶりからして、それが払えないとは到底思えない。つまり、彼女のホームレス生活は、経済的理由からではなく、そういった生き方そのものを望んでいたからではないかと考えられる。
もう一つ身近な例がある。私の職場付近でホームレスの人々が数人生活しており、ときどき彼らと話すことがある。先日その1人が、面白い話を聞かせてくれた。彼の場合、今でも昼間働いており、一時は鳶の親方もしていたこともあったそうだ。しかし、そういう羽振りの良い時期を含めて、ずっと一貫してホームレス生活を続けてきた。昔、300万円もの大金が転がり込んできたことがあり、その時は半年間ほど仕事を休み、全国を豪遊して全部つかってしまったそうだ。私は「そんなお金があったら、どこかアパートを借りようとは考えなかったんですか?」と聞いてみたが、「いや」とキッパリ否定されたので、それ以上尋ねなかった。彼の場合も、定住を拒絶する衝動があったに相違ない。
去年の暮頃から、製造業不況による派遣切りのため、住む場所を失った人々が大量に出現したことが社会問題となり、ホームレス化した派遣労働者に対する支援活動も活発に行われるようになった。私は、こういった運動に携わる人々の努力に対しては敬意を表するが、一つだけ気に入らない点がある。それは、家を失った派遣労働者はあくまで救済の対象であり、ホームレスという生き方そのものを否定してしまっている点である。
私は何も屁理屈をこじつけようとしているのではなく、日本歴史を紐解けば、定住を拒否する人々は漂泊民と言われ、長い間文化の担い手であり続けたのだ。漂泊民には、芸能、技術、金融、宗教など携わる者が多く、閉鎖された村社会に情報や娯楽、有益な品々を運び込み、まさに社会の血液としての役割を果たしてきた。中世は彼らが最も活躍した時代であり、これはヨーロッパ社会においても同様である。
それが、江戸時代には、無宿、渡世として社会から排斥された存在にまで貶められてしまうようになる。明治になってからは、法律においても日本国民としての地位を失うことになる。民法22条に住所に関する規定があり、30条の失踪宣告により、7年間行方不明の者は死亡と同じ扱いを受ける。
今までこのことに対して疑問をさしはさむ人はあまりいなかったようだが、定住していない限り日本国民として認められないという思想は、どこか間違っているのではなかろうか。現在は、生体認証やDNA鑑定など、住民票などより遥かに高い精度で、本人を確認する技術的手段があるし、携帯電話により本人に直接連絡をとることも可能である。そのような方法を用いれば、非定住者が納税したり、本人にのみ個人情報が記載された書類を交付することも十分可能なはずである。現代の技術をもってすれば、非定住者をも社会の一員として認めるシステムを構築することができるのだ。
網野義彦によれば、漂泊民は、定住民に対抗する一大勢力であり、高度な文明の担い手であり、交易や金融の発祥も、彼らの存在抜きには語れない。故に、漂泊民は、誇り高き人々だったのであり、日本人には今もそのDNAがあるはずである。だからこそ、寅さんのような存在に限りない郷愁を覚えるのである。そして、ブリトニー浜田たちをホームレス生活へと駆り立てている衝動も、このDNAのしわざだと思っている。極論かもしれないが、私は、漂泊民がいなくなってから、日本社会の衰退が始まったのではないかとさえ考えている。
柳田國男の「遠野物語」の冒頭に「平地民をして震撼せしめよ」という有名なくだりがある。この場合平地民とは、定住民のことである。我々は、このような思想をそろそろ再考する時期にさしかかってきているのではなかろうか。


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