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2008年9月

2008年9月15日 (月)

賎民としてのオタク

 秋葉事件がサンデープロジェクトで取り上げられたことは以前に述べたが、あの時のコメンテーターの一人だった東浩紀が、この事件について雑誌でも発言している。どうやら今日のオタク論の第一人者と言うことのようである。そこで、彼の著書『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を読んでみることにした。この書名から内容を想像できる人は皆無に近いと思われるが、この本は隅から隅までオタクについて書かれている。

 頭の良い人間は、よくもまぁここまで理屈をこねくりまわすものだなと感心した次第だが、正直言って今ひとつピンと来なかった。本書の内容の骨格を拾い上げれば、要するに、オタクという存在は世界的な思想運動の流れの中で捉えるべきものであり、日本はオタク文化の発信源と言うよりは、世界に先駆けていちはやくこの思想的ステージに辿り着いたということになる。彼はその論拠として、アレクサンドル・コジェーブが今日の状況を予見していたこと挙げ、そのことをもって、オタクが日本固有の事態ではなく、世界史的な出来事であると言う。これだけ言うと、「アホか」と思う人もいるかもしれないが、膨大な知見に基づいて説得されると、一笑に付したくなるような議論でももっともらしく聞こえてくるものである。

東によれば、ポストモダンとは日本においては70年代以降の全般的状況のことをさし、思想におけるポストモダニズムとは異なると前置きしている。しかし、ポストモダニズムはポストモダンに含まれるとも述べている。また、ポストモダンは戦前の京都学派の近代の超克論とも重なると言うが、近代の超克とは、ヨーロッパ合理主義そのものを乗り越えることを意味するのだから、そのような壮大なパラダイムチェンジが70年代以降進行したのかという疑問が生じる。しかし、本書のテーマはあくまでオタクであり、ポストモダンについては別に論じているということなので、これ以上の言及は避ける。

 ところで、何ゆえオタクが世界史的問題か言えば、それは「大きな物語」の喪失と関係がある。これを象徴する出来事として、日本では1972年の連合赤軍事件を挙げ、海外では1989年のベルリンの壁の崩壊を挙げている。このため、東の言う「大きな物語」にマルクス主義が含まれていることは確かだが、それ以外の近代思想や日本における戦後復興や高度経済成長なども含まれるのかについてはよくわからない。そして、現実世界における「大きな物語」が消滅した結果、その代用品として、アニメやゲームなどのサブカルチャーの世界において、壮大な物語が構築されるようになったというのだ。その代表格がガンダムであり、そして、バーチャルな物語をリアルな世界にまで持ち込もうとした結果起こったのがオウム事件だったというわけである。今から考えれば、共産主義の理想社会もバーチャルな物語と言えなくもないので、共産主義者とオウム信者との差は、それほど大きくないのかもしれない。

100パーセント賛同するわけはではないが、東の主張は一面の真実を言い当てていると思う。いつの頃からかはわからないが、テレビなどで、楽曲や映画作品に対して「世界観」という言葉がよく使われるようになった。私の学生の頃は、「世界観」と言えば高尚な用語で、しかも、マルクス主義の世界観とかアボリジーニの世界観などというように実在の対象に対して使われ、現実と無縁なものに対して用いられることはなかった。この時の「世界観」という言葉は、東の言う「物語」と対応しており、テレビでこの言葉が頻繁に出てくるということは、バーチャルな世界とリアルな世界との境目が曖昧になりつつある状況を示唆しているのかもしれない。

 話を先に進めよう。90年代後半に入ると、ガンダムのような精密で整合性のある世界観はそれほど重視されなくなり、物語の中の断片的要素、つまり「小さな物語」に関心が向けられていくようになる。その代表格がエヴァンゲリオンであり、同様の傾向をもつ作品が多く作りだされた。さらに、デジタル技術により正確なコピーが可能になったことにより、原作のキャラクターに各人各様の創意工夫を加えた作品が、インターネット上に流出するようになる。オタクたちは、自分たちのキャラクター重視の傾向を、「キャラ萌え」と呼び、彼らの関心は、作品世界にではなく、個々のキャラクターのデザインや設定に対して注がれていくようになる。そして、これが今日、秋葉原を中心に隆盛を極めていることは言うまでもない。

 東の議論はさらに展開するが、この辺で打ち切ることとする。ところで、本書の表題でもありオタクの特徴を示すとされる「動物化」について、一言だけ触れておきたい。ここで言う「動物」とは「人間」に対する概念である。性愛において、人間は自分の恋人に着飾らせたりライバルから略奪したりと、本能から独立した様々な執着をもつようになる。これは、複雑な心理を背景にした、社会的存在としての人間の「欲望」に他ならない。それに比べて、動物は発情期に交尾をすればそれで満足しておしまいと言うように、「欲求」に基づいて行動する。秋葉原の萌え系オタクたちは、恋人との複雑な心理的かけひきには興味を示さず、単なる欲求処理としての性行動をとる。これと類似しているのがコギャルであり、彼女たちは自分の肉体を収入を得るための手段として即物的に捉え、何ら後ろ髪引かれることもなく援助交際などに走る。

 東によれば、オタクは世界的な思想運動の結果誕生したものなので、コギャルの生態も同様の文脈で捉えうるということになろう。

しかし、コギャルについては、もっと簡単な説明ができよう。すなわち、フリーセックスの伝統は日本文化の中にもあった、ということである。戦前まで姦通罪のあった日本には、儒教文化に支えられた厳しい性道徳があった言う人がいるかもしれないが、必ずしもそうではない。例えば、ルイス・フロイスは、彼の著した「日本史」の中で日本の女性は西洋の女性に比べ貞操観念がないと言って嘆いている。また、田中優子は、NHKの番組の中で、江戸の「恋」とは遊郭における性愛を中心とした男女関係のことであり、夫婦はお家存続のためのものであり、したがって、江戸時代において「愛」という概念は存在しなかったと述べている(視聴したものなので不正確かも知れない。詳しくは、田中優子著『江戸の恋』参照)。また、赤松啓介の民俗学研究によれば、農村社会においても、夜這いが制度化されていたという。重労働が多く楽しみの少なかった農村社会においては、夜這いという形でフリーセックスが一般に行われていたのである。

赤松(1909~2000)は、講演会である農村の老婆の言葉を次のように紹介した。

「今の若い娘さんは、1本の○○○しか知らないで可哀想じゃ。ワシらの頃は、太いの細いのいっぱい知っちょった」

これなど、コギャルが年老いた時に言いそうな台詞ではないか。ちなみに、赤松の世代から考えて、この場合の「今の若い娘さん」とは戦前の婦人たちのことであろう。このように日本の社会とは、時間軸や空間軸を変えることによって異なった相貌を見せてくるので、単一に語ろうとするのは危険である。そして、今日常識とされている恋愛の方が、近代化に伴って混入してきた異物なのであり、コギャルのような生態は、突然変異でも何でもないのだ。

さて、話をオタクに戻そう。

東の議論の中で、まず異和感を覚えるのは、十把一からげにオタクを捉えようとしている点である。浅羽通明は、中森明夫がこの命名をした直後から(1983年頃)、オタクについて論じているが、彼の結論は、オタクとは知識人の今日的謂いであるというものであった。つまり、知識人とは、例えば西洋の場合、ギリシャ・ローマの古典的教養と言ったように共通の知の基盤があったが、情報化社会によって総情報量や飛躍的に増大した結果、このような共通知(すなわち、教養)をもつだけの余裕を失い、限られた領域の知の獲得に邁進するようになった。そのため、日常会話以外の共通言語が奪われていき、共通の知の領域をもつ者同士のみが群れ、交流するようになった。それが、マニアでありオタクなのである。やや自分の言葉で要約しすぎたきらいが、私はかつて浅羽が主宰するサークルに属していたことがあり、彼から直接話を聞き、このように解釈してきた。

そして、彼の主宰するサークルには、一風変わったオタク系の若者たちが集まっていた。しかし、彼らはいわゆる「思想オタク」という人々であり、今日のアキバ系の若者とは全く人種が異なる。東が言う、「大きな物語」の喪失後サブカルチャーの世界観を代用したという話は、このような「思想オタク」に関してならまだしもわかるが、アキバ系をそのように解釈するにはちょっと無理があるのではないか。もしアキバ系の若者が戦前に生まれていたとしたら、共産党員として地下活動をしていたなどという話は、ちょっと想像がつかないからだ。

そして、何より東の議論で一番欠落していると思われるのは、オタクが賎視の対象であるという事実への言及が、全く見られないことだ。

今日、オタク系と思われるビル・ゲイツが世界一の金持ちとなり、オタクに対する社会的評価は相対的に高まってきている。とりわけ日本においては、基幹産業が低迷する中、唯一気をはいているのはアニメやゲーム産業であり、オタク文化は日本経済にとって救世主となりつつある。しかし、そのような貢献度に比べて、オタクの社会的地位はいまだに低く、あまりパッとしないと言えるのではないか。最近は、中川翔子や栗山千明などのように、アキバ系であることを公然と語るタレントも増えてきたが、どちらも女性であり、男性でイケメン系のタレントがアキバ系を語れる状況はまだ生まれてないように思える。これほど活躍しているのにも関わらず、オタクが十分に市民権を得ていていないことの背景には、いったいどのような事情が隠されているのだろうか。

まず、「オタクはキモイ」と賎視する主体は女性であろう、という点を強調しておきたい。だから先ほどのタレントのように、女性の場合、賎視感情はそれほど生まれてこないのである。この点に関して、オタクが話題になりはじめた当初、アメリカのある女性研究者がこう指摘している。すなわち、オタクの問題点は性欲を生身の人間に対してではなく、物に対して向けてしまうことにある(森岡正博の発言 彼女の名前・専門分野については失念)。この辺の議論は、先ほど紹介した東の「動物化」と重なってくる。つまり、人間関係上面倒くさい欲望へのモチベーションを持たぬオタクたちにとって、一番効率的な欲求処理方法は、当然のことながら自慰である。その場合、実在する女性は、全く相手にされないことになる。

要するに、オタクの本質的な特徴の中には、人類の存続に関わる生殖、再生産に対して消極的ないし無関心という傾向が含まれているのだ。これは、直接の当事者である女性にとってはきわめて不愉快な話であり、そのことが「キモイ」という感情をもたらしているのではないだろうか。そして、このような傾向に対する賎視は、世界中に普遍的に存在し、例えば同性愛者や性的不能者に対する差別についても同様のことが言える。その意味では、オタクと対関係にあるのは、過剰な性衝動をもつコギャルではなく、むしろフェミニストではないかという気がする。すべてではないが、過激なフェミニズムの中には、婚姻制度はもとより、生殖・再生産そのものを拒否する一派がある。そして、このような差別感情は伝統的社会ほど根深く、先進国や都市部ほど緩和されていく傾向があるように思う。例えば、フェミニズムに対する批判勢力は、共和党の支持母体でもある南部のカトリック信者たちであり、ヒラリー・クリントンは大統領選を戦うためには、フェミニストであることを自ら否定しなければならなかった。また、以前、テレビの討論番組でペナン出身のタレント、ゾマホンが、ホモを激しく非難していたが、その理由は、ホモは子どもを作れないことにあった。伝統的社会の維持には、家族制度の存続が不可欠であり、それを少しでも破壊する要素をもつ者に対しては、厳しく攻撃の矢が浴びせかけられるのである。

ところで、網野義彦や阿部謹也の中世賎民の研究によれば、日本でもヨーロッパでも、賎民の中には技術者集団が含まれている。技術者の根源的傾向の中に、性欲の対象を人ではなく物に向けるということがあるかもしれず、もしかしたらそれが、洋の東西を越えて、技術者が賎視の対象となった理由なのかもしれない。また、網野義彦によれば、賎民である漂泊民などは異類異形の者などとも呼ばれ、衣服などが一般民衆たちとは明らかに異なっていた。秋葉原をリュックサックとダサいファッションで闊歩する若者たちは、まさに現代版異類異形の者と言えるのかもしれない。

今日、オタク文化は日本経済の救世主とも見なされるようになり、その結果、オタクを白眼視する傾向は少なくなっているのかもしれない。しかし、それは彼らの才能がオタクであることを補ってあまりある場合のことであり、オタク自体はやはり負の烙印であることに変わりはない。先ほども言ったように、男性のイケメン・タレントの中にオタクはほとんどおらず、有名人オタクの岡田斗司夫や森永卓郎などの場合、才能や経済力によって、オタクのマイナス部分が相殺されているのであろう。

そして、オタクであり、派遣労働者であった場合はどうか。それが、秋葉事件の加藤容疑者である。彼が携帯サイトに書きこんだ「モテナイ」という記述は被害妄想などではけしてなく、才能も経済力もないゲームオタクが、女性から相手にされることはないという客観的な自己認識に他ならない。そして、マイナス要因が重なることによって、負の相乗作用が起こり、追いつめられていったことは容易に想像できるのだ。

東が指摘したように、オタクの表層的形態に関しては、思想史的なものが確かに関与していたのかもしれない。しかし、オタクは恐らく遥か昔から世界中におり、差別され続けてきた存在のだ。賎視されたことにも根深い理由があり、その感情は、一朝一夕に消えてなくなるものではない。ゆえに、日本経済を支えているオタクがもてはやされる一方、その波に乗れぬオタクが賎視されるという状況は今後も続いていくことだろう。そして、負の烙印を相殺するだけの能力のない、ごく普通のオタクたちは、格差社会の最底辺部へと押しやられていくことになるのだ。

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