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2008年8月15日 (金)

秋葉事件-孤立化したマイノリティ―

サンデープロジェクト(8/10)で、秋葉原無差別殺傷事件が取り上げられ、パネラーとして姜尚中、櫻井よしこ、東浩紀、香山リカと、左右及びおたくの錚々たる論客たちが顔を並べた。姜尚中は、経済格差によってもたらされた日本の若者の「在日化」について指摘した。また、櫻井よしこは憲法による過剰な権利意識と義務意識の希薄化と、それに伴う自己規律の低下を問題視した。これに対して東浩紀は、グローバリズムや社会構造の変化など多様な問題が絡んでおり、憲法だけを変えても状況は何も変わらない、と反駁した。さらに東は、2チャンネル上で秋葉事件の加藤容疑者を支持する者が2割いたことを紹介した上で、ネット上の言説は本気かどうかあてにならないことも付け加えた。

大筋どの主張もそれなりに的を射ており、特に異論はないのだが、逆に言えば、誰でも考えつきそうな常識的な発言ばかりであったと言えなくもない。これらの論客たちは、持論の枠組の中で現象を解釈しようとしているため、迫力に欠いた論評に終始しているのであろう。現在私は、日雇い派遣によって収入を得ることを余儀なくされ、はからずもフィールドワークをしてしまっているため、彼らより少しはましな結論にたどり着けるのではないかと自負している。

以前私は、日雇い派遣の場合、派遣先で嫌な思いを味わったとしても、現場が常に転々と変わるため、怨恨としての対象を特定個人に絞り込めない点を指摘したが(「無差別殺人事件について」を参照)、さらにつけ加えたいことがあるので、以下述べてみたい。

派遣の初日、私はきわめて印象深い光景を目にした。それは休憩時間のことである。各人は一定間隔を置いて、地べたに腰を下ろして休憩をとっていた。若者の多くは携帯電話を見つめ、メールを打つなどしていた。また、それ以外の者たちは、近くの壁によりかかったりしながら、黙々と時を過ごしていた。この一定間隔の距離というのは、会話が成立しない距離のようでもあり、彼らは、話しかけられることを拒んでいるかのように見受けられた。

その後、回数を重ねていくうちに、仲間同士で親しげに語り合っている光景を目にすることもあった。考えてみれば無言で休息時間を過ごすというのは、必ずしも異様な光景とは言えないであろう。クラス替えや新たなグループに参加する時など、初対面の者同士がしばらくは会話のきっかけをつかめず、沈黙しているのと同じと考えればよい。しかし、派遣の場合、初対面の者同士で作業をするケースが多く、会話がないまま1日が終るということの方がむしろ普通であろう。したがって、通常の仕事に比べれば、同僚同士のコミュニケーションが圧倒的に不足しているというのは事実である。

そして、話している内容に耳を傾けると、そのほとんどが仕事に関する事柄なのである。フリーターというと多くの誤解があるが、彼らの中でもこれで糧を得ている、いわゆる「レギュラー組」と呼ばれている人々は、恐ろしく仕事熱心である。その分能力主義的傾向も強く、仕事でのできない者に対する目も、きびしいものがある。また派遣の場合、日々現場が変わるために、話題にこと欠かない面もあり、このような仕事の内容に関する情報交換が会話の大半を占めている。

しかし、私のサラリーマン時代の経験と引き比べて違和感を覚えるのは、各人のプロフィールに関する情報がほとんど交わされていない、という点である。前職は何なのか、出身地はどこなのか、彼女はいるのか、趣味は何なのか、最近観た映画は何か etc. こういったことについて話されることはあまりない。この仕事を始めて2年近くになるが、このような話題を耳にすることは稀で、仕事に関する話題が尽きると、ほどなくそこで会話が止まってしまうのである。

当初は、主要メンバーから見れば私はロートルのため相手にされておらず、仲間同士の話題から蚊帳の外に置かれているのではないかと僻んでいた。しかし、仕事の失敗談、例えば、高所作業中トイレに行けなくて小便を漏らした話とか、セキュリティーの厳しいビルで夜遅く非常階段の出口から出たらドアがロックしてしまい、携帯から110番をかけ警察に救出されたが、派遣先から大目玉を食らった事件などは、ちゃんと耳に入ってくるのである。しかし反面、各人の経験談が語られないというのは、なにゆえであろうか。

その理由となると、内部にいる者にとっても判然としない。世間からワーキングプアと呼ばれ、社会の底辺いるというトラウマが、自己について語る口を重たくさせているのではないか、ということが一つ挙げられる。通常なら、同じ仕事に長い間従事して来たことは、ベテランとして、敬意の対象になりうるが、この仕事に限って言えば、それは、惨めなカミングアウトになりかねない。また、羽振りの良かった経験のある者が、過去の栄光を語ったとしても、転落者が何を偉そうにと言われそうである。私も、場の空気に合わせて沈黙している一人だが、その理由は後者に近い。

しかし、マイノリティの者がマジョリティの中にポツンと一人だけいる場合ならともかく、同じ境遇の者同士が集まっているところで、このような規制が働くというのは今ひとつ釈然としない。もちろん前歴や現在の立場はまちまちまちだが、それは、例えばタクシードライバーなどにおいても同様であろう。ところが、タクシー運転手の場合、事情は大分異なるようである。梁石日の「タクシー狂躁曲」などには、ドライバーたちが仕事から戻ると、休息室ではバカ話に花が咲き、己の過去をさらけ出している様子が描かれている。さらに彼が生まれ育った朝鮮人部落のマイノリティ社会は、一般の地域社会より遥かに濃密な人間関係によって彩られている。姜尚中が指摘した若者の「在日化」とは、マイノリティ化と言い換えてもよいと思われるが、この辺が在日社会とは大きく異なる点ではなかろうか。すなわち、派遣の若者は、あたかも仮面をかぶって、仕事という振舞いを通してしか互いの接点を持ち得ないでいる。古い知識で恐縮だが、ゲマインシャフトかゲゼルシャフトで言えば、日雇い派遣の場合、明らかにゲゼルシャフト的である。しかも、通常の会社組織よりも、さらに機能的関係のみが凝結してしまった、究極のゲゼルシャフと言えるのではないか。

それでは、雇い先の派遣会社との関係においてはどうであろうか。日雇い派遣の場合、派遣会社から派遣先を紹介されるが、この紹介は希望しても受けられないことが多い。そして、このことが派遣社員にとって、最大のストレスとなる。中でも、派遣労働のみで生活しているレギュラー組と言われる人々にとっては、死活問題となってくる。しかし、誰にどの仕事を振り分けるかの権限は、派遣会社の社員が握っているため、社員には逆らえず、仕事を配分してもらうためには気に入られようにするしかない。派遣会社の社員の中には、その立場を利用して、派遣労働者に対して生意気な口のききかたをする者も少なくない。しかし、派遣労働者の方も、仕事がなければ明日の生活にも困るので、複数の派遣会社に登録し、ダブルブッキングしたりして対抗している。そのため、仕事の当日になってドタキャンする者が後を絶たない。

このように派遣会社と派遣労働者の間には、「利用する―利用される」だけの、冷ややかな関係が横たわっている。そのため、多くの派遣労働者は、派遣会社に対する忠誠や信頼感などというものは、はなから持ち合わせていない。そして、仕事が来なくなったら、内部告発してやるといきまている者が結構多い。実際、グッドウィルやフルキャストの問題も、このような内部告発者によって発覚している。

このように派遣労働者には、横の関係においても、縦との関係においても、きわめて細い絆でしか結ばれていない傾向がある。さらに、彼らの多くが単身者であり、家族との絆も薄く、また、地域社会で重要な役割を果たしている者も稀であろう。一部の者は、ホームレスなのだから、足場とする地域社会すらもたないことになる。要するに派遣労働者は、さまざまな意味で共同体から断絶された、いわば「孤立したマイノリティ」とでも呼ぶべき存在なのである。

一般に、マイノリティは、社会的ストレスを受けやすく、社会で受けた個人の傷を、集団的に受けとめる傾向がある。同じ境遇にあり、同様の経験をしたことのある者同士が、傷ついた者の怒りや悲しみの感情を吸い上げ、癒してきたのではなかろうか。そして、それでも癒しきれない深刻な差別を受けたり、グループ全体にとって許しがたい攻撃があった場合には、暴動に発展することもあるだろう。しかし、それはよほどの場合であり、滅多やたらに起こりうることではない。ということは、このようなマイノリティ・グループにおける癒しの機能は、個人的暴走を食い止める、安全弁の役割を担ってきたのではないか。

これに比べ、派遣労働者は、そのようなマイノリティ社会をもっていない。そのため、一匹狼的な内部告発へのモチベーションが高まるのであろう。しかし、内部告発が成就して、その企業が制裁されるケースはきわめて稀である。そうなれば、安全弁を持たぬ派遣労働者は、ガス抜きもままならぬまま、ストレスがどんどん蓄積されていくことなる。それはあたかも、エアポンプで空気を送り込まれ、後は炸裂するしかない気球のようでもある。

私にとり、内部告発から先の、無差別殺人までの道のりは一直線であるかのように思える。言葉を正確に使えば、それは「無差別殺人」の予備軍的状況という意味である。

実際に行動に及ぶ者は、ごくほんの一部に過ぎないであろうが、その動機や苛立ちを共有できる者は、膨大な数に上るに違いない。これが、「無差別殺人」の予備軍的状況の意味合いである。そして、無差別殺人の矛先は社会全体、もっと言えば、マジョリティに対して向けられているはずである。その日の糧すら満足に得られないマイノリティの者たちを踏み台にして、マジョリティ社会が成り立ち、飽食の限りを尽くし、しかも国家がそれを支持している。だとしたら、そういった状況そのものを破壊したいとい思う気持ちが湧いてくるのも当然であろう。東はネット上の言説は信頼がおけないという不可知論に立っているが、このような意味で、加藤容疑者への共感者が2割近くいもいたことは、けして不思議ではないのである。

そして、「無差別殺人」の予備軍から、犯罪への引き金となるのは、やはり性衝動ではなかろうか。マイノリティの心の傷と鬱屈した性衝動が重なり合ったとき、核融合反応が生じ暴走へと駆り立てるというのは、十分納得の行く説明である。その点、加藤容疑者は正確に言語化していたと思われるのだ、マスコミはまともに取りあわなかったようである。これを矮小化して片付けても、何の解決にもつながらないのだが。

もう一つ、櫻井の指摘した自己規律の問題は、単純なようで意外と重要である。しかし、識者が論ずるように、自己規律を高めるのは教育だけの問題ではない。自分の経験に照らしても、幼児は先験的にモラリストなのである。教育がそれを伸ばしていないことは紛れもない事実であろうが、それを解決するためには儒教教育でも復活させるしかない。しかし、先験的モラリズムが決定的に崩壊させれられるのは、むしろ社会に出てから後のことなのではないか。正直者がバカを見る緩みきった社会のありようを目の当たりにし、それに引き比べ自分のバカ正直で悲惨な状況を顧みるにつけ、社会に対する怨嗟の念が沸々とたぎってくるのではないか。人間は貧しいだけで、社会を呪うようになるわけではない。全員が貧しければ、それなりに納得のしようもある。一部の者が不正な手段によって財をなし、そのことに対して、社会が何ら制裁を与えないことに対して苛立つのだ。この状況は、櫻井が指摘するような、憲法改正なではどうしよもない。それよりももっと下位の法律、刑法や労働に関連する諸法、そしてその運用こそが見直されるべきなのである。

そして、社会の規範が溶解しつつある今日、殺人はなぜ悪いのかとうい究極的問いかけに対する答えすら、我々は見失いかけている。そのため、チャップリンが「独裁者」に言わしめた「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む」という言葉さえ、十分な説得力をもちつつあるのではないか。このことは、さらなる大きな、無差別殺人への契機を孕んでいる。

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