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2008年8月

2008年8月29日 (金)

企業内間接殺人

昨年の自殺者の数は3万3,093人で、平成10年以来10年間連続3万人を越えたことになる。自殺者の数は平成9年と10年を境に急激に増加したが、それ以前は2万人台半ばをずっと推移してきた。ちなみに、男女比で言うと、平成15年の統計では、男の23,396人に対して、女は8,713で、男性の自殺者数は女性の約2.6倍となっている。

また、国際比較で言うと、日本の自殺率は世界で第9番目となる。上位は1位のリトアニアを初めとして旧共産主義圏の国々に多いが、先進国では日本が断トツである。例えば、フランスは19位、米国は43位(日本の約半分)、英国は63位(日本の約3分の1)である。上位の国々の多くが貧困や政情不安などの問題を抱えているのに対し、経済的に豊かで政治的にも安定している日本においてこれだけの自殺者を招いているというのは、やはり異常な事態と言えよう。

ところで、自殺の原因に関する詳しい調査が発表された。これは、NPO法人自殺対策支援センターライフリンクが行ったもので、「自殺実態白書」としてこのほど公表された。この白書は、遺族1000人の対する聞き込み調査をもとに作成されたもので、日本における自殺の実態を把握するための、最新かつ最も詳細な調査報告書であると言えよう。ライフリンクは、民間有志のグループで、東京大学経済学部のプロジェクトチーム、弁護士、精神科医、一般ボランティアなどによって構成されている。この団体の性格については現段階では不明だが、1000人の遺族に対して聞き込み調査を行うためには、個人情報の入手が不可欠であるので、政府と何らかの協力関係をもっているものと推測される。

しかし本来、このような調査は、一民間グループに任せるのではなく、厚生労働省なり警察庁なり、行政が率先して行い、白書として公表するべき性質のものではなかろうか。また、平成10年に急増したのなら、もっと可及的速やかに実施されてしかるべきであった。民間のNPOが動き出すまで、国による本格的な調査が何も行われなかったというのでは、この問題に対する姿勢を問われても仕方がない。2006年に成立した自殺対策基本法には、「国及び地方公共団体は、自殺の防止に関し、調査研究を推進し、並びに情報の収集、整理、分類及び提供を行うものとする」とある(第11条)

さて、その内容についてだが、自殺原因・動機を特定できたものの内訳は、「健康問題」が44%。「経済生活問題」が22%、「家族問題」が11%、「勤務問題」が7%、「男女問題」が3%、「学校問題」が1%、その他、となっている。そして、「自殺実態白書」では、これらの要因を地域別に分類した膨大な統計調査が行われている。

今回の調査で明らかになったのは、自殺は一つの要因によって引き起こされるのではなく、様々な要素が複合的に絡み合いながら発生するといった自殺のメカニズムである。例えば、自殺要因で一番比率の高い因子は「健康問題」であるが、そのうち約半分がうつ病である。しかしうつ病は、自殺に至るプロセスの最終段階と言ってもよく、それまでに、事業不振、過労、職場の人間関係、身体疾患などいった問題を抱えていたケースが多い。次に多いのは「経済生活問題」であり、そのうちの約半数を借金問題が占めている。これについても同様で、それに至るまで経緯には複数の要因が関与している。

中でも注目すべきは職場要因であり、30代の働き盛りに自殺者が増えていることからも、この要因の重要性がうかがえる。これに関しては、正社員にあっては労働負荷、非正規社員にあっては不安定雇用などの問題が一般に指摘されているが、一筋縄では行かないことは他の類型と同じである。

すでに述べたように、この白書では、市町村ごとに詳細な調査が行なわれており、それがこの資料の大半を占めていると言っても過言ではない。大変な労力が費やされたことは疑いもないが、このような分類に果たしてどれくらい意味があったのか、今一つぴんと来ないというのが正直な感想である。

例えば、自殺者が一番多いのは秋田県で、1~10位までの6県は東北・北陸などの寒冷地が多い。これは、自殺率の高い旧共産圏の諸国にも緯度の高い地域が多いこととも符合し、気候条件との関連性を示唆していると言えなくもない。日照時間と自殺率の関係については、この白書では否定的だが、例えば、ラテン気質は陽気だと言うのは洋の東西を越えた常識と言ってもよく、その逆も真なら、日照時間とうつ状態があながち無関係であるとも言いきれまい。そして、うつ症状が自殺の引き金になることはすでに証明済みなので、三段論法式に言えば、日照時間の短い北方地域において自殺率が高まるという仮説には、全く根拠がないとも言いきれない。

しかし、たとえこのような事実が証明されたとしても、自殺対策と直接には結びつきにくい。富裕層には転地療法が可能であっても、ほとんどの人々にとって、自殺リスクが高いからという理由で移住するという選択肢はありえないからだ。したがって、このような地域ごとに詳細な分析を加えたことの目的が、今一つよくわからない。もちろん、自治体の努力によって自殺率が改善されたかを評価するためには、このような調査が有益だろう。しかしそれは経年的変化を見ることによって明らかになるのであって、このような単年度の調査からそれを読み取ることは不可能である。

私見を言わせてもらえれば、自殺防止と言った問題に関しては、単に客観的データーを集めるのではなく、自殺対策と直結する問題を重点的に取り上げ、掘り下げていくべきではないかと考える。

このような観点に立った場合、まず自殺の原因が、内因的なものであるか外因的なものであるかで区別することが大切である。外因とは環境要因のことを指し、内因とはそれ以外の、個人の内面的問題に起因する要素が大きい場合のことを指す。そしてさらに、外因的自殺のうち、加害者のある自殺とそうでない自殺とを明確に線引きすべきである。

自殺が内因的であるか外因的であるかについては微妙な問題で、それこそ聞き込み調査などの資料に基づき、ケースごとに具体的に判別していくより他なかろう。

例えば、有名なデュルケムの「自殺論」によれば、都市における孤立感やアノミー(社会規範の崩壊)が自殺の原因になりうることが示唆されているが、このような自殺に関しては、とりあえず内的要因として分類したい。また、負債による自殺でも、少額の借金で、しかも1回の督促も受けないうちに死んでしまうケースがあるが、これについても同様である。統合失調症などの場合は、もちろん内因的自殺である。

私が、外因的自殺と考えるのは、通常の人でも、耐えがたいほどの苦痛を受け、自ら命を絶ってしまっても不思議ではないような精神的状態にまで追い込む、具体的状況が存在した場合のことである。

なぜこのような基準を考えたかと言えば、それは自殺防止対策上、両者はアプローチが異なると思われるからである。内因的自殺の対策としては、広義のメンタルヘルスケアーの普及によって改善できると思われる。当然かかわる人も、精神科医やカウンセラー、行政のケースワーカー、いのちの電話の相談員といった人々が中心となる。要するに、心の病の治療ないし、カウンセリング等による現状認識や価値観の改善によって、自殺回避に導くことが可能な場合である。

一方、外因的自殺の場合、過酷な労働実態等が現実に存在するわけだから、状況そのものに対して働きかけを行っていくことが肝要である。例えば悪質な労働条件の企業には業務改善命令を出したり、あるいは、取立の厳しい金融業者に対して行政処分を行ったりすることである。状況そのものが自殺を誘発しているのだから、それが改善されなければ、第二、第三の犠牲者を招くことになるだろう。

そしてさらに強調しておきたいのは、外因的自殺の中でも明らかに加害者が存在する場合についての取り扱いである。この場合、刑事的立件を視野に入れた捜査がもっと強力に行われるべきではなかろうか。

白書では、自殺危機要因の「勤務問題」の下位項目として、「仕事上の失敗」、「上役等の叱責」、「人間関係の問題」、「職場のいじめ」などが挙げられている。しかし一口に職場の問題と言っても、単なる不和や意見対立の場合と、集団的いじめやパワーハラスメントなど加害者が存在した場合とでは、その意味は全く異なる。また、聞き込み調査の中には、長時間の残業を強いられ、それが元で病気になったら今度は解雇を言い渡されたという事例が紹介されていたが、この場合、その企業に加害行為があった見なされるべきなのではないのか。

私に言わせれば、これら加害行為によって引き起こされた自殺は「企業内間接殺人」に他ならず、自殺対策上特に着目して改善していかなければならない。

自殺対策基本法は、自殺が個人的問題ではなくその背景に社会的要因があることを認めている(第2条)。そして、自殺防止対策を真に実効あらしめるためには、明らかな加害者が存在した場合にはその犯人を特定することが重要であることを特に強調しておきたい。つまり、過酷な労働条件、組織内のいじめ、またパワーハラスメントが引き金となって、地球より重いと言われる命が奪われたとしたら、その原因を作った張本人なり組織なりに対して、何らかの刑事責任が問われるべきだということである。同じ過ちを二度と繰り返させないためにも、処罰が必要である。また、遺族にとっても、肉体的暴力があった場合殺人罪や傷害致死罪が適用されるのに、心理的暴力によって死に至った場合は、適用する法律すらないというのは、あまりに納得のいかない話であろう。

企業内の問題に対して、警察や労働基準監督署はもっと強力に介入すべきである。これが、長年中小企業のとんでもない実態を見てきた私の、心の叫びである。企業内で起きている暴力に対して、今まで国家はあまりに無関心でありすぎたのだ。

この調査においても、「上役等の叱責」などという言葉でお茶を濁さず、職場で何が起こったのかについてもっと追及してほしい。このような話は、恐らく家族にすら隠している可能性があるので、調査対象は遺族だけでなく、元同僚たちにも広げられるべきであろう。そして、徹底した調査は、国家の名の下に行われなければ、企業の協力も得られないであろう。そして、一次調査によって、「企業内間接殺人」の疑義のある企業に対しては、強制検査を視野に入れたさらなる調査が必要であろう。人の命が奪われたのだから、過去をほじくりかえすようなことがあっても、それは認められるべきである。現在の法制度によって、このようなことが可能かどうかはわからぬが、オーム事件の折カッターナイフを持っていただけで銃刀法違反で逮捕した融通無碍さをもってすれば、何でもできそうな気がする。もし法的整備が必要なら、パワーハラスメント防止法などを早急に作ればよい。年間3万人という自殺者の数は、それほどに重たい意味をもつ数字なのだ。

自殺増加の社会的背景には、単なる経済的側面だけではなく、企業による社会的暴力の問題が潜んでいると、私は確信する。今まで政府は、これにほとんで手をつけてこなかった。もちろん「企業内間接殺人」が起こるような企業は普通の会社ではない。しかし、このような会社の存在は、一般に思われているより遥かに多いのである。反社会的勢力の闇は、従業員10人以下の企業を中心に果てしなく広がっている。国は、ライブドアやグッドウィルのような大企業には法の網をかけても、アミーバーのように形や居場所を変える悪徳企業に対しては、ほとんど手を打つことができないでいる。それは労働基準法がザル法であり、労働基準監督官が、タイムカードや労働災害のチェックのみに終始し、特別司法警察職員としての本来の役割を果たしていないからである。

反社会的勢力が巣食う悪徳企業においては、「企業内間接殺人」どころか、現実の殺人まで起きているが、それはほとんど事件化されていないと、元企業舎弟企業準構成員だった作家の浅田次郎氏は指摘している。一方、刑務所は、万引きや無銭飲食で捕まった知的障害者やボーダーの人々で溢れ返り、知的障害施設の様相を呈している。(「刑務所は知的障害施設か?」参照)今日の刑事政策において、逮捕すべきは誰かという「罪と罰」の根本問題が疎かにされているのではなかろうか。

国家その始原において、反社会的勢力や暴力勢力を鎮圧・駆除することに、一義的存在理由があったはずだ。ところが、現在は、経済政策にばかり血道を上げ、本来の機能が見失われ、知能犯や悪徳企業の天国と化してしまっている。自殺増加の問題を契機に、国家は本来の己の役割に目覚めてほしいものだ。

2008年8月25日 (月)

裁判員制度広報ビデオ

平成215月から、国民が刑事裁判に参加するという裁判員制度が始まるが、先日、これに関する広報用ビデオを見た。法務省は現在この手の映像作品をいくつも製作しており、私が見たのは「裁判員制度―もしもあなたが選ばれたら―」と「総務部総務課山口六平太裁判員プロジェクトはじめます!」であった。

「裁判員制度―もしもあなたが選ばれたら―」には、俳優の中村正俊と西村雅彦が出演している。あなたなら、この二人が、それぞれどのような役柄だったと想像するだろうか。実は、初めて裁判員候補者に選ばれ当惑しているサラリーマン役が西村雅彦、そしてそれを説得する親切かつ熱意溢れる裁判官の役が、中村正俊であった。まず私は、このキャスティングに大きな違和感を感じた。普通なら、その逆ではないだろうか。周防正行監督の映画「それでもボクはやっていない」を私はテレビで見たが、小さな画面で見づらく、しかも最近視力が衰えてきたため、嫌な裁判官をずっと西村雅彦だと思っていた。しかし、後で小日向文世だということに気づいた。西村雅彦と小日向文世は遠目ではよく似ており、しかも裁判官のイメージとピッタリ一致する。中村正俊のような二枚目の裁判官がいることが、果たして想像できるだろうか。ちなみに、アニメ版の山口六平太でも裁判官が、二枚目ではないが人格者を思わせる厚味のある風貌に描かれていた。この辺に、この作品を製作した側のナルシストぶりがよく伺われる。

この中村正俊と西村雅彦の関係性は象徴的である。古畑任三郎以来、おっちょこちょいだが人のよいイメージを与える西村雅彦、そして、ハンサムで頭も良く、人間としてパーフェクトな印象を与える中村正俊。田村正和と西村雅彦の場合、田村正和演ずる古畑任三郎にはわがままな側面があったりしたが、中村正俊の場合、そういった欠点も払拭され、より完全無欠な人間像として浮かび上がってくる。そして、おっちょこちょいの人間と完全無欠な人間との間には、ある一つの関係性しか生まれてこない。すなわち、それは、一方がもう一方に対して「教え諭す」という関係である。

実際、この作品もそのような作りになっている。中村正俊が、悩める親、人間としての弱さをさらけ出す部分もあるにはあるが、しょせんそれは飾りに過ぎず、本質においては、「優秀である裁判官が国民のみなさんを指導してあげますから、大丈夫ですよ」という、尊大なメッセージしか聞こえてこない。

裁判制度が導入された目的は、キャリア制度の中で、裁判官の感覚は一般国民の常識と乖離してしまっており、その中に、国民の視点を取り入れることにあったはずである。すなわち、教え諭されるべきは裁判官のはずなのだが、このビデオにおいて、教え諭されるべきは相変わらず国民なのである。この点に関して、これを製作した法務省そのものが、裁判員制度の意味を理解していないのではないか、といった疑問が湧いてくる。

話がやや抽象的になってしまったので、この作品で取り上げている事件について具体的に紹介してみよう。酒場で、A(被告人)が、酔って狭い通路を通ったときB(被害者)の連れの女性にうっかり触れ、女性はコップをこぼし服を汚してしまう。Aはすぐに謝罪したが、Bはそれでも許さず、興奮してAを押し倒し、馬乗りになってAの顔面を何度も殴打する。連れの女性がBの暴行を止めている間に、Aはその場から逃げ出す。しかし、一方的に殴られたことに釈然とせず、Aは舞い戻ってくる。それを見つけたBは、再びAに襲いかかるが、今度はAは包丁を手にしており、それでBの腹部を突き刺す。

幸いBの怪我は軽症ですみ、公判のときにはほぼ完治していた。法廷では、被告人のAは深く反省している様子で、被害者のBは相変わらずチンピラ風の態度でAに罵声を浴びせかけていた。しかし、すでに、AはBに対して慰謝料を支払い、示談が成立しており、Bも実刑判決までは望んでいなかった。

結局、この裁判では、執行猶予のついた判決が下った(何年の刑かは失念)。大した異論もなく、終始中村正俊演ずる裁判官が、裁判員たちをリードする形で結論に導かれていった。そして、裁判員たちは、法廷で人を裁くという貴重な社会経験を得たことに満足しつつ、裁判所を後にする。

しかし、日本の裁判制度という枠組の中では、このような判決に妥当性があったとしても、別の視点からすれば必ずしも同じ結論にたどり着くとは限らない。だからこのケースでも、全く異質な意見が出てきて、それと喧々諤々の議論が繰り広げられるというケースこそ想定されるべきではなかろうか。法的常識の圏外にある思考様式と対峙し止揚させていくことが、裁判員制度の本当の目的ではないかと考えるのだが、いかがだろうか。

例えば、私なら、この判決に全然納得がいかない。BがAに難癖をつけ、Aをボコボコにしたのである。顔を何度も殴打され、当然怪我もしたはずである。この暴行に対する傷害罪は何ゆえ問われないのだろうか。Bの理不尽な暴力に対する復讐なのだから、Aの行為の方が遥かに正当性がある、と私なら考える。酔った勢いもあって刃物を持ち出してしまったのは確かにやり過ぎだったが、その結果、最初のBの暴行が不問にされるというのは、少なくとも私にとっては理解できない。

このような抵抗感がもっと強く出てくるのは、アニメ版の「総務部総務課山口六平太裁判員プロジェクトはじめます!」である。この事件では、上司が部下のことを日常的に殴っていたために、そのことに切れた部下が上司を刺してしまったというものだ。この裁判には山口六平太の上司が裁判員として参加するが、自分も部下をものさしで叩いていたので、ちょっと反省する。

しかし、このようなブログをやっている私にとって、上司の日常的な暴力行為は極刑にも値する。これは何も大袈裟に言っているのではない。パワーハラスメントはDV同様、根深い性格的要因があるため、繰り返し行われ、しかも被害が多数に及ぶ可能性もある。その中には深い心的外傷を被り、時には自殺に追い込まれることもある、重大な犯罪である。このケースでも、被告人は刃物まで持ち出してしまうほど極限状況に追い込まれていたのだ、と考えられる。だから、被告人の情状が酌量されるというだけでは断じて納得できない。頻繁に行われていた上司の暴力行為こそが、断罪されるべきなのだ。

いずれもこれらは私の主観である。この主観は、私自身の性格や経験によって形成されたものであろう。だから、他人に強要するつもりはない。しかし、人は、誰しも、このような主観をもっているものである。ゆえに、ある行為に対しては敏感に反応する反面、別の行為に対しては極めて鈍感であったりするのだ。そして、このような多種多様な感覚の振れ幅こそが、キャリア制度によって毒された一元的な価値観に揺さぶりをかける唯一の方法なのではあるまいか。そのためには、裁判官自身が、己の思考様式を相対化する文化人類学的視点を獲得しなくてはならない。しかも、その視点は、西洋人が未開民族を眺める視点であってはならない。そのような視点とは、己は完全無欠であり、相手はまだ未熟なので教え諭すといった視点と共通する。

さらに、一部の裁判官は、警察の調書を鵜呑みにし多くの冤罪判決を出してきたことをもっと自戒すべきである。国民の目から見て、呆れるような判決が何と多いことか。私は、このような冤罪事件をなくす希望を、この裁判員制度に託している。もちろんそれが吉と出るか凶と出るかは、施行されてみなければわからない。ひどい判決が百出しており、国民の怒りは沸点に達しているのだ。

要するに、裁判所は己を、中村正俊に重ねている場合などではない、ということだ。

2008年8月21日 (木)

刑務所は知的障害施設か?

 NHK教育テレビで、知的障害者の犯罪について放送され(「福祉ネットワーク」8/19)、その中で「新受刑者の知能指数」が紹介された。この統計は「犯罪白書」にも載っている。これによれば、新受刑者のうち、IQ69以下の人々が23%、IQ70~79の人々が23%、IQ80~89の人々が25%、IQ90以上の人々が24%、不明が5%、ということであった。通常IQ69以下が知的障害者と言われているが、IQ70代、80代にしてもボーダーと言われる領域で、日常生活や就労面でハンディを負うことが多い。そして、この統計によれば、IQ89以下の人々が、新受刑者の約7割を占めていることになる。

これは驚くべき数字でなかろうか。と同時に、日本の刑事制度はいったい今まで何をやってきたのかと、慨嘆させられる。要するに、本来ならば、福祉によって保護されなければならない人々を刑務所にぶちこんできた、ということである。

この番組でも、こういった人々は、刑期を終えて出所しても行く宛てがなく、ホームレスになるより他なく、その挙句、刑務所に戻るために再び犯行に及んでしまう例が多いと指摘していた。

IQ69以下が23%などと堂々と公表しているが、このような知的障害の範疇に属する人々の刑事責任能力が本当に問えるのだろうか? この点に関して、日本の刑事裁判は、きわめて奇妙なことになっているようだ。例えば、北尾トロ著「裁判長!これで執行猶予はあまくないすか」という裁判傍聴記には、弁護士、検事、裁判官がそろって、被告人の明らかな妄想話におつきあいしている場面が描かれている(「第20幕 悪魔がささやく」)。もちろん弁護士側としては、被告人に刑事責任能力がないことを証明しようとしているわけだが、有罪率99.9%という状況で検察が起訴したということは、本件も恐らく刑事責任が認められ有罪が確定するのであろう。

刑事裁判では、心神喪失が認定されると無罪になるのだが、心神喪失と認定される例は極めて稀であり、全事件数の50万分の1にすぎない。また、心神耗弱が認定されると刑が減刑されるが、これも、年間80名程度であるという。いずれにせよ、先の新受刑者の23%を占めるIQ69以下の人々のほとんどは、心神耗弱にも該当しないということになる(心神喪失の場合、受刑者にはならない)。 

民事の成年後見制度でも、心神喪失や心神耗弱と類似した概念が存在するが(以前は、心神喪失や心神耗弱という言葉が使われていた)、IQ69以下の知的障害者なら十分この制度が利用できるし、もっと軽度の場合でも、保佐や補助の利用が可能である。成年被後見人や被保佐人や被補助人になった場合、いったん結んだ契約を取り消すことができるので、判断力の不十分な人を餌食にした悪質な業者から身を守ることができる。民法と刑法は違うとは言え、あまりにアンバランスではなかろうか。

殺人などの場合を除き、犯罪の大きさはIQに比例すると言っても過言ではない。そのため、こういった判断力の低い人々の犯す犯罪の多くは、万引きとか無銭飲食といった類であろう。また、親に先立たれた知的障害者はホームレス化する場合が多いので、空腹をしのぐため、つい手をだしてしまったケースが多いだろうことも予想される。こういった可哀そうな人々をかたっぱしから刑務所に送り込むのは、再犯率が高いからという刑事政策的意図が働いているためかもしれない。また、犯罪加害者の軽度知的障害者の場合、制度のはざ間にあって、行くべき施設が存在しないということも、番組で紹介されていた。だからといって、保護施設の代わりに、刑務所にぶちこむというのはあまりに乱暴な話ではないか。

また、知的障害やボーダーの人々が、取調べの段階できちんと自分の無実を主張できるかという問題もある。取調官がその気になれば、いとも簡単に事件をでっちあげ、こういう人々を犯人に仕立ててしまうことが可能であろう。現にそういう事件が起こっている。

2004年、吉田清さん(56)が、二つの強盗事件で逮捕・起訴された。吉田さんは宇都宮市に住む重度の知的障害者であったが、刑事上の責任能力がないことは全く考慮に入れられず、それどころか、取調官が吉田さんの手を勝手に動かし、虚偽の自白調書を書かせられてしまったのである。
 その後、真犯人が見つかり、吉田さんの無罪は確定した。そのため吉田さんは、精神的苦痛を受けたとして、国と栃木県に対して国家賠償請求訴訟を起こした。
 2月28日、宇都宮地裁は、国と県に対して100万円の支払いを命じる判決を言いわたした。判決では、「警察官が知的障害者の迎合的特性を利用し、被害者供述に合致した虚偽の自白調書を作成した」ことが認定され、原告の主張がほぼ受け入れられたのだ。

受刑者の中に、IQの低い人が多いと言うことは、他にもこのような冤罪事件が含まれている可能性が否定できないことを意味している。
 さらに、軽度知的障害者ならび判断力の不十分なボーダーの人々は、被害者にもなりやすい。札幌で複数の知的障害者がきわめて劣悪な労働環境の下で20年以上もの間無給で働かされたという事件が今年発覚した(事業主は逃亡してしまった)。また、埼玉県富士見市在住の認知症姉妹が、悪質なリフォーム業者の餌食にされ、数千万円の全く不要な工事をさせられてしまった事件がマスコミでも大きく取り上げられた。私の直接知っているケースでも、判断力の不十分な60歳の男性が、結婚詐欺まがいにあって2億円近くの財産を奪われてしまった。埼玉県富士見市の事件によって、「リフォーム詐欺」という言葉が一躍脚光を浴びたが、それにもかかわらず、この事件では刑事上の詐欺罪は成立せず、一部が返還されただけで、ほとんどのお金は戻ってこなかった。また、私の知っているケースでも、あえて「詐欺まがい」と言ったのは、婚姻届を出せば結婚詐欺は成立しないからである。したがって、この女詐欺師が、何度同じ手口で人を騙しても、けして捕まることはないのだ。

無銭飲食や万引きなどの小さな罪を犯した軽度知的障害者は牢屋に入れられる一方、判断力の不十分な人々をカモにして、何千万、何億円を騙し取った人間に対しては、警察は指一本触れることもできない。これを不公平と言わずして、何を不公平と言えるのだろう。

そして、このブログのテーマとする中小企業と言う名の犯罪組織においては、日夜違法・脱法行為が行われているにもかかわらず、労働基準監督者や警察は、拱手傍観している。知能犯は法律を睨んで犯罪を犯す。これは当たり前のことである。一方、そういう頭の働かない人々は、単純な犯行に走ってしまい、簡単に捕まってしまう。そして、こういった罪で捕まった受刑者が、刑務所の約7割を占めている。

これらの受刑者には本来行くべき施設などに行ってもらい、その空いたところに本当の悪党どもをどんどんぶちこんでほしいと願うのは私だけであろうか……

                                                       

2008年8月18日 (月)

クレイマークレイマー

 大分昔評判になったダスティン・ホフマン主演の映画のことではない。悪質なクレームが氾濫している、今日の嘆かわしい状況のことである。以前取り上げたモンスターペアレント(「モンスタープレジデント」参照)も、この変種に違いない。違いは向けられている対象だけであって、商品と同列にされてしまったほど、今の教育者の権威が地に落ちているということに他ならない。また、110番や119番に悪質なイタズラ通報が増えているというのも、同種の現象と言えよう。

ところで、私はかつてこのクレームが毎日頻繁に行われている会社に勤めていたことがある。あまり行儀のよくない会社に入ってしまった結果なのだが、しかも、そういった会社は1社ではなかった。これらの会社では、クレームがあたかも日常業務の一環として行われていた。そのためクレームの実態を、つぶさに観察する機会に恵まれた。仮にこれらの会社を、A社とB社としておこう。

A社の社長は一見温厚な紳士で、上司としてもまともで、当然取引先に対しても特に変わった言動は見られなかった。ところが、ある条件下において、ジキルとハイドのように豹変し、我々を驚かせるのであった。それは、重要な取引の局面と、クレームにおいてであった。前者のように、のるかそるかの緊迫した状況の中で人格が変わるというのは、ある意味理解可能である。しかし、たかがクレームで、温厚な紳士が突然激昂して大声を出すと言うのは、どう考えても我々の常識を越えている。しかもその金額は些細なもので、1万円にも満たない場合が多かった。A社社長の場合、何故か電話料金の口座引落の手続をとらず、しかも、督促が来てから支払っていたため、そのタイミングが遅れると会社の電話が利用停止になってしまうことが度々あった。そんなことが理由で、NTTとしょっちゅう揉めていた。そして、たまにNTTに落度があると、担当者を呼びつけ土下座させたりしていた。NTTの人間が謝って帰った後、社員たちに向かってニコッと微笑みかけ、「よし、これで明日の契約、頑張るぞ」などと言っていた。要するにこれが、些細なことで難癖をつける真の理由だったのである。つまり、A社の社長にとり、このクレームは、ウォーミングアップだったのだ。ハードな交渉には、常日頃からの訓練が必要である。大声を出したり、怒鳴りつけたりする時の勘を鈍らせないためにも、機会を利用しては、研鑽を積んでいたのであろう。その他にも、しつこい営業電話がかかってきた時などにも、急にハイド氏へと豹変し、受話器を置いた後、「ごめんね、うるさくて」と社員たちに謝ってみせていた。

この社長のいいところは、次に紹介するB社と異なり、それを社員に強要しなかったことである。

私が経験したもう一つのB社でも、クレームは頻繁に行われていた。B社の社員の半分以上は前科者で、社長はクレームをこの社員たちに命じてやらせていた。ここでも、通信販売で購入した商品など、金額的にはたかが知れている場合が多かった。よく通信販売の広告で「商品到着後、気に入らなければ○日以内に返品して下さい」という決まり文句があるが、ある社員が「こんなこと俺たちに言っていたら大変なことになっちゃうよ」などと冗談ぽく語っていた。

要するにB社でも、クレームは社員たちのアウトロー教育の一環として行われていたのである。恐らく社長は、次のような点をチェックしていたに違いない。①嫌な仕事でも、自分の命令に忠実に従うか、②全く理由のないことで、どれだけ大声を出し騒ぎ立てることができるか。

幸か不幸か、私には才能がないと見られたせいか、この仕事のお鉢が回ってくることはなかった。一方、期待通りに仕事をこなした者は、何度もやらされていた。

統計を取ったわけではないが、恐らくクレームの中には、このようなヤクザのトレーニング的要素をもつものが相当数含まれているのではないか。ということは、それによって、一人前のアウトローが養成されていくわけだから、その悪影響たるや計り知れないものがある。昔は、債権回収がヤクザビギナーの仕事だと言われていたが、両者は似ている上、クレーマーの方が電話越しで安全なため、より初心者向けと言えるだろう。

しかも、半ば業務として行っているのだから、その被害の数も半端ではなく、膨大なものになるであろう。中に、脅迫に屈し理不尽な要求を呑んでしまうケースも少なくないはずである。そうなれば、真似する者も現れ、あっという間に広がっていくであろう。私自身、このような行動を最も忌み嫌うタイプであるが、クレーマーのロールモデルはしっかりインプットされているので、何かの折に発揮することになるかもしれない。

A社社長もB社社長も、けして堅気とは言えないが、別にどこかの暴力団の構成員になっていると言うわけでもない。同様に、盃事をしたわけでもない者が、クレーマとして悪の道に入ってで行く可能性を大いにある。そして、このように中途半端なアウトローが、今、猖獗を極めているのである。それによって得をし、何の制裁も受けなかったとすれば、その模倣者は加速的に増えていくに違いない。

ゆえに、度を越えた悪質なクレームに対しては、恐喝罪や強要罪を適用するという対策を早く取らねばならない。社会的影響力から考えればこれは急務であり、もたもたしていればモラルはどんどん破壊されていく。電子技術が発達し、電話での恐喝行為の録取が容易になっているのだから、これによって立証すれば、悪質なクレーマーに罰を与えること十分可能なはずである。

ちなみに、A社もB社も脱税はお手の物で、B社に至っては、退職後、国税庁から呼び出しを受けて、供述調書を書くはめになった。また、B社社長は、堀の外にいるのが不思議なくらい、さまざまな違法行為や脱法行為に手を染めていた。

クレーマーは悪事への入り口である。そして、私のように適性のない人間はこの段階で脱落していくし、この門をくぐりぬけた者は、さらに本格的に悪事へと手を染めていくはずである。したがって、この段階で食い止めることができなければ、潜在的犯罪者の資質を開花させ、世に送り出していくことになるのである。

百円の缶コーヒーの万引きでも、繰り返せば、窃盗罪として実刑判決を受けることになるが、クレーマーは何度繰り返しても、けして罰せられることはない。万引きより遥かに社会的悪影響が大きいと思われるクレーマーに対して、法の網が被せられないとうのは、なんとも不条理かつ片手落ちではなかろうか。刑事政策は、このような悪党の行動パターンや社会的影響力を睨んでなされるべきではないのか。

2008年8月15日 (金)

秋葉事件-孤立化したマイノリティ―

サンデープロジェクト(8/10)で、秋葉原無差別殺傷事件が取り上げられ、パネラーとして姜尚中、櫻井よしこ、東浩紀、香山リカと、左右及びおたくの錚々たる論客たちが顔を並べた。姜尚中は、経済格差によってもたらされた日本の若者の「在日化」について指摘した。また、櫻井よしこは憲法による過剰な権利意識と義務意識の希薄化と、それに伴う自己規律の低下を問題視した。これに対して東浩紀は、グローバリズムや社会構造の変化など多様な問題が絡んでおり、憲法だけを変えても状況は何も変わらない、と反駁した。さらに東は、2チャンネル上で秋葉事件の加藤容疑者を支持する者が2割いたことを紹介した上で、ネット上の言説は本気かどうかあてにならないことも付け加えた。

大筋どの主張もそれなりに的を射ており、特に異論はないのだが、逆に言えば、誰でも考えつきそうな常識的な発言ばかりであったと言えなくもない。これらの論客たちは、持論の枠組の中で現象を解釈しようとしているため、迫力に欠いた論評に終始しているのであろう。現在私は、日雇い派遣によって収入を得ることを余儀なくされ、はからずもフィールドワークをしてしまっているため、彼らより少しはましな結論にたどり着けるのではないかと自負している。

以前私は、日雇い派遣の場合、派遣先で嫌な思いを味わったとしても、現場が常に転々と変わるため、怨恨としての対象を特定個人に絞り込めない点を指摘したが(「無差別殺人事件について」を参照)、さらにつけ加えたいことがあるので、以下述べてみたい。

派遣の初日、私はきわめて印象深い光景を目にした。それは休憩時間のことである。各人は一定間隔を置いて、地べたに腰を下ろして休憩をとっていた。若者の多くは携帯電話を見つめ、メールを打つなどしていた。また、それ以外の者たちは、近くの壁によりかかったりしながら、黙々と時を過ごしていた。この一定間隔の距離というのは、会話が成立しない距離のようでもあり、彼らは、話しかけられることを拒んでいるかのように見受けられた。

その後、回数を重ねていくうちに、仲間同士で親しげに語り合っている光景を目にすることもあった。考えてみれば無言で休息時間を過ごすというのは、必ずしも異様な光景とは言えないであろう。クラス替えや新たなグループに参加する時など、初対面の者同士がしばらくは会話のきっかけをつかめず、沈黙しているのと同じと考えればよい。しかし、派遣の場合、初対面の者同士で作業をするケースが多く、会話がないまま1日が終るということの方がむしろ普通であろう。したがって、通常の仕事に比べれば、同僚同士のコミュニケーションが圧倒的に不足しているというのは事実である。

そして、話している内容に耳を傾けると、そのほとんどが仕事に関する事柄なのである。フリーターというと多くの誤解があるが、彼らの中でもこれで糧を得ている、いわゆる「レギュラー組」と呼ばれている人々は、恐ろしく仕事熱心である。その分能力主義的傾向も強く、仕事でのできない者に対する目も、きびしいものがある。また派遣の場合、日々現場が変わるために、話題にこと欠かない面もあり、このような仕事の内容に関する情報交換が会話の大半を占めている。

しかし、私のサラリーマン時代の経験と引き比べて違和感を覚えるのは、各人のプロフィールに関する情報がほとんど交わされていない、という点である。前職は何なのか、出身地はどこなのか、彼女はいるのか、趣味は何なのか、最近観た映画は何か etc. こういったことについて話されることはあまりない。この仕事を始めて2年近くになるが、このような話題を耳にすることは稀で、仕事に関する話題が尽きると、ほどなくそこで会話が止まってしまうのである。

当初は、主要メンバーから見れば私はロートルのため相手にされておらず、仲間同士の話題から蚊帳の外に置かれているのではないかと僻んでいた。しかし、仕事の失敗談、例えば、高所作業中トイレに行けなくて小便を漏らした話とか、セキュリティーの厳しいビルで夜遅く非常階段の出口から出たらドアがロックしてしまい、携帯から110番をかけ警察に救出されたが、派遣先から大目玉を食らった事件などは、ちゃんと耳に入ってくるのである。しかし反面、各人の経験談が語られないというのは、なにゆえであろうか。

その理由となると、内部にいる者にとっても判然としない。世間からワーキングプアと呼ばれ、社会の底辺いるというトラウマが、自己について語る口を重たくさせているのではないか、ということが一つ挙げられる。通常なら、同じ仕事に長い間従事して来たことは、ベテランとして、敬意の対象になりうるが、この仕事に限って言えば、それは、惨めなカミングアウトになりかねない。また、羽振りの良かった経験のある者が、過去の栄光を語ったとしても、転落者が何を偉そうにと言われそうである。私も、場の空気に合わせて沈黙している一人だが、その理由は後者に近い。

しかし、マイノリティの者がマジョリティの中にポツンと一人だけいる場合ならともかく、同じ境遇の者同士が集まっているところで、このような規制が働くというのは今ひとつ釈然としない。もちろん前歴や現在の立場はまちまちまちだが、それは、例えばタクシードライバーなどにおいても同様であろう。ところが、タクシー運転手の場合、事情は大分異なるようである。梁石日の「タクシー狂躁曲」などには、ドライバーたちが仕事から戻ると、休息室ではバカ話に花が咲き、己の過去をさらけ出している様子が描かれている。さらに彼が生まれ育った朝鮮人部落のマイノリティ社会は、一般の地域社会より遥かに濃密な人間関係によって彩られている。姜尚中が指摘した若者の「在日化」とは、マイノリティ化と言い換えてもよいと思われるが、この辺が在日社会とは大きく異なる点ではなかろうか。すなわち、派遣の若者は、あたかも仮面をかぶって、仕事という振舞いを通してしか互いの接点を持ち得ないでいる。古い知識で恐縮だが、ゲマインシャフトかゲゼルシャフトで言えば、日雇い派遣の場合、明らかにゲゼルシャフト的である。しかも、通常の会社組織よりも、さらに機能的関係のみが凝結してしまった、究極のゲゼルシャフと言えるのではないか。

それでは、雇い先の派遣会社との関係においてはどうであろうか。日雇い派遣の場合、派遣会社から派遣先を紹介されるが、この紹介は希望しても受けられないことが多い。そして、このことが派遣社員にとって、最大のストレスとなる。中でも、派遣労働のみで生活しているレギュラー組と言われる人々にとっては、死活問題となってくる。しかし、誰にどの仕事を振り分けるかの権限は、派遣会社の社員が握っているため、社員には逆らえず、仕事を配分してもらうためには気に入られようにするしかない。派遣会社の社員の中には、その立場を利用して、派遣労働者に対して生意気な口のききかたをする者も少なくない。しかし、派遣労働者の方も、仕事がなければ明日の生活にも困るので、複数の派遣会社に登録し、ダブルブッキングしたりして対抗している。そのため、仕事の当日になってドタキャンする者が後を絶たない。

このように派遣会社と派遣労働者の間には、「利用する―利用される」だけの、冷ややかな関係が横たわっている。そのため、多くの派遣労働者は、派遣会社に対する忠誠や信頼感などというものは、はなから持ち合わせていない。そして、仕事が来なくなったら、内部告発してやるといきまている者が結構多い。実際、グッドウィルやフルキャストの問題も、このような内部告発者によって発覚している。

このように派遣労働者には、横の関係においても、縦との関係においても、きわめて細い絆でしか結ばれていない傾向がある。さらに、彼らの多くが単身者であり、家族との絆も薄く、また、地域社会で重要な役割を果たしている者も稀であろう。一部の者は、ホームレスなのだから、足場とする地域社会すらもたないことになる。要するに派遣労働者は、さまざまな意味で共同体から断絶された、いわば「孤立したマイノリティ」とでも呼ぶべき存在なのである。

一般に、マイノリティは、社会的ストレスを受けやすく、社会で受けた個人の傷を、集団的に受けとめる傾向がある。同じ境遇にあり、同様の経験をしたことのある者同士が、傷ついた者の怒りや悲しみの感情を吸い上げ、癒してきたのではなかろうか。そして、それでも癒しきれない深刻な差別を受けたり、グループ全体にとって許しがたい攻撃があった場合には、暴動に発展することもあるだろう。しかし、それはよほどの場合であり、滅多やたらに起こりうることではない。ということは、このようなマイノリティ・グループにおける癒しの機能は、個人的暴走を食い止める、安全弁の役割を担ってきたのではないか。

これに比べ、派遣労働者は、そのようなマイノリティ社会をもっていない。そのため、一匹狼的な内部告発へのモチベーションが高まるのであろう。しかし、内部告発が成就して、その企業が制裁されるケースはきわめて稀である。そうなれば、安全弁を持たぬ派遣労働者は、ガス抜きもままならぬまま、ストレスがどんどん蓄積されていくことなる。それはあたかも、エアポンプで空気を送り込まれ、後は炸裂するしかない気球のようでもある。

私にとり、内部告発から先の、無差別殺人までの道のりは一直線であるかのように思える。言葉を正確に使えば、それは「無差別殺人」の予備軍的状況という意味である。

実際に行動に及ぶ者は、ごくほんの一部に過ぎないであろうが、その動機や苛立ちを共有できる者は、膨大な数に上るに違いない。これが、「無差別殺人」の予備軍的状況の意味合いである。そして、無差別殺人の矛先は社会全体、もっと言えば、マジョリティに対して向けられているはずである。その日の糧すら満足に得られないマイノリティの者たちを踏み台にして、マジョリティ社会が成り立ち、飽食の限りを尽くし、しかも国家がそれを支持している。だとしたら、そういった状況そのものを破壊したいとい思う気持ちが湧いてくるのも当然であろう。東はネット上の言説は信頼がおけないという不可知論に立っているが、このような意味で、加藤容疑者への共感者が2割近くいもいたことは、けして不思議ではないのである。

そして、「無差別殺人」の予備軍から、犯罪への引き金となるのは、やはり性衝動ではなかろうか。マイノリティの心の傷と鬱屈した性衝動が重なり合ったとき、核融合反応が生じ暴走へと駆り立てるというのは、十分納得の行く説明である。その点、加藤容疑者は正確に言語化していたと思われるのだ、マスコミはまともに取りあわなかったようである。これを矮小化して片付けても、何の解決にもつながらないのだが。

もう一つ、櫻井の指摘した自己規律の問題は、単純なようで意外と重要である。しかし、識者が論ずるように、自己規律を高めるのは教育だけの問題ではない。自分の経験に照らしても、幼児は先験的にモラリストなのである。教育がそれを伸ばしていないことは紛れもない事実であろうが、それを解決するためには儒教教育でも復活させるしかない。しかし、先験的モラリズムが決定的に崩壊させれられるのは、むしろ社会に出てから後のことなのではないか。正直者がバカを見る緩みきった社会のありようを目の当たりにし、それに引き比べ自分のバカ正直で悲惨な状況を顧みるにつけ、社会に対する怨嗟の念が沸々とたぎってくるのではないか。人間は貧しいだけで、社会を呪うようになるわけではない。全員が貧しければ、それなりに納得のしようもある。一部の者が不正な手段によって財をなし、そのことに対して、社会が何ら制裁を与えないことに対して苛立つのだ。この状況は、櫻井が指摘するような、憲法改正なではどうしよもない。それよりももっと下位の法律、刑法や労働に関連する諸法、そしてその運用こそが見直されるべきなのである。

そして、社会の規範が溶解しつつある今日、殺人はなぜ悪いのかとうい究極的問いかけに対する答えすら、我々は見失いかけている。そのため、チャップリンが「独裁者」に言わしめた「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む」という言葉さえ、十分な説得力をもちつつあるのではないか。このことは、さらなる大きな、無差別殺人への契機を孕んでいる。

2008年8月 5日 (火)

派遣イジメについて

 派遣社員に対する「イジメ」は確かに存在する。極端なイジメとまでとはいかないまでも、小ばかにしたような取り扱いを受けた経験は、ほとんどの派遣社員が味わったことがあるであろう。人の出会いは一期一会なのだから、もっと大切にすればよいものをと思うのだが、どうやら我々はそのような対象とは見なされていないらしい。

会社における通常のイジメとは、一定の観察期間を経て、集団の中で低く評価された者に対して加えられるケースが多い。しかし、派遣社員に対するそれは、そもそもの社会的地位の低さに由来しているようである。中には、頭のおかしな派遣先の社員がいて、全く落ち度がないにもかかわらず、ほぼ5分毎に怒鳴り散らされたことがあった。しかも、そいつは私よりずっと年下の人間である。今更長幼の序などという古臭い道徳観念を持ち出すつもりはさらさらないが、あまりに不当な暴言に耐えがたい屈辱を味わわされたものであった。この手のやからは、絶対的に立場の弱い者に対してサディスティックな攻撃を加えることによって快感を得ているとしか思えない。

また、力仕事の場合、腕力は一瞬にして知れてしまうので、非力が発覚した途端、態度を急変されるということはよくある。幸い私は平均的筋力があるようで、このことを理由に攻撃されたことはないが、仲間がやられている場面を目撃したことはある。

 これらの積極的な「いじめ」の他にも、消極的ないじめ、すなわち、直接手を下さない陰湿ないじめというのもある。昨年の6月から、民間監視員による駐車違反の取り締まりが始まった結果、駐禁対策という新たな仕事が、派遣業務の中に加えられた。この仕事は、トラックの助手席にただ座って、ドライバーが納品している間監視員に切符を切られないようにするためのものである。したがって、配送助手と異なり、肉体的な作業は何もしないため、ドライバーから嫌がらせを受けやすい。例えば、ドライバーが納品中自分だけトイレを済ませてきて、派遣社員には行かせてもらえないという話をよく聞く。もちろん行きたいと言っても行かせてくれないわけではないと思うが、それがなかなか言いづらい雰囲気は、この仕事をやってみた者でないとわからない。公衆トイレはどこにでもあるわけではなく、しかも配送作業は、秒単位の過密なスケジュールの中で行われているため、自分のためにわざわざトラックを停めてくれと申し出るのには、相当の勇気を必要とする。だから、普通の感覚の持ち主なら、トイレのある納品先に来たときには、ドライバーの方から声をかけてくるのが当然である。それをしないというのは、明らかに嫌がらせであり、事実同じ経験をした者は、みなそのように受け取っていた。

 もう一つ引っ越しの仕事で、よく受けるイジメがある。引っ越し作業は先ほども述べたように筋力を必要とするので、非力な者ほど被害に遭いやすい。我々の仕事はあくまで引っ越しの「補助」のはずなのだが、それにもかかわらず、重い荷物が持てないと、容赦なく攻撃されることがある。また、ドライバーによっては、荷物を持って階段を駆け上がる時、「足元を見るな」などと言ってくるとんでもない奴がいる。私は、テレビでお馴染みの某大手引越しセッターの社員から、この言葉を吐かれたことがある。足元が不安だから見るのであって、見なければ間違いなく転んでしまうだろう。もし転倒し、物損なり労災の事故を招いたら、どう責任をとるつもりなのだろうか。「足元を見るな」と要求する社員は他にもいるらしく、これもときどき話題になる。

 もちろん、このようなことを会社が率先して指導しているわけもなく、ドライバー個人の性格によるところが大きい。しかし、100パーセント個人の問題であるかというと必ずしもそうではなく、会社の影響力が少なからず働いているものと思われるのである。

S社という中堅の運送会社があるが、そこの社員は押しなべて派遣社員に対してやさしい。私もそこの仕事を何度かやったことがあるが、そのうちの1度は社長自ら現場に赴いていた。しばらく社長であると気づかなかったほど、派遣社員に対しても腰が低い人であり、社長の薫陶を受けるとはこういうことなのかと、その時実感したものだった。恐らく他の社員たちも、社長の姿勢に見習って、派遣社員に対して同じように接していたのであろう。

 S社は特殊なケースであり、すべての会社がこのようになってほしいと考えるほど、私は世間知らずではない。しかし、冒頭に挙げたように明らかに常軌を逸した攻撃が派遣社員に対して加えられた場合などには、やはり何らかの規制が必要ではなかろうか。派遣事業者(つまり、派遣社員が登録している会社)にとって派遣先はお客さんであるため全く頼りにはならず、ここに文句を言ってみても始まらない。私も、別件で、あまりに危険な作業であったため、担当者にクレームを述べたことがあるが、その仕事が自分に来なくなっただけであった。

 要は、派遣社員の声にきちんと耳を傾けてくれる行政の窓口があればよいということである。それも労働基準監督署のように企業側に立ち、門前払いするところではなく、労働者の側に立ち、親身になって話を聞いてくれるところでなければならない。そして、複数のクレームが寄せられた企業に対しては、何らかの行政指導がなされるべきである。某大手引越しセッターなどには、恐らくこれが効果てき面であろう。朝礼で派遣社員に対して「足元を見るな」などと要求してはならないことを周知徹底させれば、一発で改善されるはずだ。大手は風評を気にするので、コントロールしやすいのだ。また、許認可業種に対しては、営業停止処分で脅しをかけることができるであろうし、許認可でコントロールできない企業に対しても、公表とかいくらでも方法があるはずである。要はやる気次第なのだ。

2008年8月 1日 (金)

日雇い派遣禁止について

今秋にも労働者派遣法の改正案が上程され、日雇い派遣が禁止されるということが報道されている。私は、日雇い派遣会社5社に登録しており、いわばこの動きの真っ只中にあると言える。しかし日々、派遣会社の社員や派遣労働者の様子を眺めていて、動揺している気配は全く感じられない。恐らく、この法律が成立しようがしまいが、自分たちの飯の種となる派遣労働は未来永劫なくならないと、たかをくくっているのであろう。

日雇い派遣は、需要と供給の双方に大きなニーズがあり、今更急に止めろと言われても止められるものではない。違法業者が厳格に処罰されるならばともかく、例によって実質野放しの規制に終るのだろうから、ほとんどの業者は今まで通り続けられると思っているのであろう。何度も指摘しているが、現在の労働者派遣法で禁止されており、グッドウィルやフルキャストの営業停止処分の原因ともなった建設業務や二重派遣は、いまも多くの派遣会社において行われているのだ(港湾業務についてもおそらく同じであろうが、具体的情報は得ていない)。

ちなみに私の登録している業者のうちの1社は、一般労働者派遣事業の許可さえ受けていないいわゆる闇業者である。だから、もともとこの法律の蚊帳の外におかれているのだ。もし、本格的な規制が行われたとしても、この業者だけは従来どおり仕事を続けるに違いないと確信している。

日雇い派遣は、それを利用する者にとって麻薬のようなものであり、一度味をしめたら絶対に手放すことができない。職人の仕事の中には、石膏ボードの移動などの重労働や、梱包された部材の開梱といった、単純だがやたら時間がとられる仕事が含まれている。これらを派遣労働者にまかせれば、本来の技術的な仕事に専念できるのだ。そして、日雇い派遣が広く利用されるようになってからすでに月日が経っているので、今更元の体制に戻せと言われても、戻すことができない体になっているのである。特に、職人の中には高齢者もいるので、今更重い部材を運べと言うのは、我々の目から見ても少々気の毒である。麻薬中毒患者が犯罪者になるのを覚悟の上で麻薬に手を出すのと同様、派遣の便利さを享受してしまった者は、違法だろうがおかまいなしに、今後もこの制度を利用し続けるに相違ない。しかも、麻薬取締法と異なり、労働者派遣法の罰則などたかが知れているので、無視する業者がたくさん現れても不思議ではない。

一方、労働者にとっても、日雇い派遣は大変使い勝手のよい制度である。よく言われるように自分のライフスタイルによって、好きな時間に仕事ができるといったメリットは見逃せないが、中には、このような形でしか働けないという人たちもいるのである。私がこの仕事で知り合ったある者は、体が弱く、一日働くと1週間ぐらいはダウンして家で寝込んでしまうことになる。回復に要する時間がどのくらいかかるかわからないので、アルバイトやパートもできないが、この仕事なら、前日に予約を入れればよいので、なんとか勤まるのだそうだ。

このように、日雇い派遣は需要と供給の双方に強いニーズがあり、しかもそれにはそれなりの合理性や正当性があるので、実態を無視して禁止を断行すれば、強烈な反発と無数の違反をまねくだけだ。

政治家や評論家は、立法さえすれば事は終ったと考える節があるが、問題は、それから先の運用面にこそあるのではなかろうか。派遣労働は確かに労働者に対する不当な搾取を生みやすいが、それを根絶するためには、一つ一つの問題に対してていねいに対処して行く日々の努力の積み重ねこそが肝要で、それなくして、単に法律だけを変えてみても何の問題解決にもならないであろう。そして、違法行為が横行すれば法律の権威は失墜し、その結果あらゆる面で横暴がまかりとおるようになり、労働者はますます苦境に立たされることとなる。

今、必要なのはほとんどの者にとって遵守可能な立法と、違法を犯した者に対する強い制裁なのである。

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