無差別殺人事件について
秋葉原の事件に続いて、不特定多数の者を対象とした無差別殺傷事件が頻発している。テレビなどのコメントなどを見ると、犯人の個人的責任を追及する発言が多く、いい加減うんざりしている。私は、無差別大量殺人こそが現代犯罪の典型でありかつ象徴であると、オウム事件の頃から考えていた。個人に問題があるのは当然であり、それはあらゆる犯罪に共通して言えることである。しかし、今回の一連の事件のように、容疑者の多くが派遣労働などの低所得者層にあるならば、社会的背景こそもっと重視されるべきであろう。しかし、これも所詮無理な注文なのかもしれない。テレビでコメントする有識者などというのは、低所得者層に対する共感力に最も乏しい場所にいる人々なのだから……。
私は、無差別殺傷事件という犯罪類型に非常に共感してしまうたちの人間である。きれいごとを抜きにして言わせてもらえれば、多くの人間は潜在的に殺人願望を有していると言っても過言ではない。それは、ドラマや小説の中では、恋愛と同じくらいの頻度で、殺人と絡むストーリーが存在している事実からもうかがえよう。これは、愛やエロスの衝動と同じくらいの強さで、殺人や暴力に対する衝動を人間が抱えもっていることの証左でもある。それを物語の鑑賞や創造的破壊と言った代償行為によって、多くの人々は犯罪から免れているにすぎないのだ。ゆえに、本能のはけ口や合法的な代償の手段を失った人々が、このような行為へと駆り立てられていくのは、むしろ必然的であると言ってもよい。
もう一つ、「無差別」の意味についてである。これは、怒りの矛先が社会という抽象的な存在に向けられているということに他ならない。従来型の犯罪では、怨恨の対象が特定個人に向けられていた。社会で長く働いていれば、殺したい思う相手が一人や二人いても、けして不思議ではない。しかし、怨恨感情は一朝一夕にして形成されるものではなく、それなりの熟成期間を必要とするものである。私もかつて同僚の中にそういった存在がいたが、その者に対する感情は20年近い年月を経て培われたものであった。ところが、派遣労働の場合、職場がコロコロ変わるのが通例であり、しかも身分が不安定であるため、短期間にかなり強烈ないじめに会うこともしばしばである。すると例えば、ある職場でAからひどい仕打ちを受け、次の職場でBからいじめを受けた場合、AやBという一個人に対しての恨みを蓄積するだけの時間が足りないのである。しかし、職場が変わっても、同様のストレスにはさらされ続けいく。そのため、怨恨の対象が特定されぬまま、方向性を持たぬ憎悪や怒りの感情だけが溜っていくことになる。
そしてさらに、今はこの感情を吸い上げるだけの社会的装置が消滅してしまっている。「蟹工船」がベストセラーになっていることからもうかがえるよう、劣悪な労働環境が若者の間に広がっているにもかかわらず、小林多喜二が夢見たようなマルクス主義の理想や労働運動に対する期待感は誰も抱けないでいる。労働組合は、ごく一部の企業においてしか有効に機能しえないし、その一部の企業でも組織率は毎年低下している。そして、行政は基本的に企業の味方であり、このことは労働基準監督署が労働者の声に耳を傾けていない現実によっても示唆される。
そして、低所得の若者は、恋愛や結婚からも排除され、それは秋葉原の事件によって端的に示されていた。行き場を失ったエロスとタナトスが入り混じりあい、矛先となるべき対象も見出せないないという、完全な閉塞状況の中で暴発しているのが、昨今の事件であったと言えるだろう。
しかし、私は何も、このような犯罪者を擁護し、情状酌量し減刑すべきだとは露ほども考えない。このような犯罪を起こした状況がリアルに想像できるだけに、もし自分がその立場だったら、潔く死を望むだろうと確信できるからである。謝罪しない容疑者が多いと言うが、これはある意味、社会の矛盾が己に憑依したような感覚に襲われているからではなかろうか。今後無差大量殺人が増えることが予想されるからこそ、死刑制度は絶対に存置しなければならないと考える。
そして同時に、無差大量殺人という抽象的な社会というものをターゲットにした犯罪から発せられるメッセージに対して、耳を傾けなくていかなくてはならないのは当然である。びほう策のようなもので間に合えば越したことはないが、もっと本質的な問題が関与しているような気がしてならないのである。


最近のコメント