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2008年7月

2008年7月30日 (水)

無差別殺人事件について

 秋葉原の事件に続いて、不特定多数の者を対象とした無差別殺傷事件が頻発している。テレビなどのコメントなどを見ると、犯人の個人的責任を追及する発言が多く、いい加減うんざりしている。私は、無差別大量殺人こそが現代犯罪の典型でありかつ象徴であると、オウム事件の頃から考えていた。個人に問題があるのは当然であり、それはあらゆる犯罪に共通して言えることである。しかし、今回の一連の事件のように、容疑者の多くが派遣労働などの低所得者層にあるならば、社会的背景こそもっと重視されるべきであろう。しかし、これも所詮無理な注文なのかもしれない。テレビでコメントする有識者などというのは、低所得者層に対する共感力に最も乏しい場所にいる人々なのだから……。

 私は、無差別殺傷事件という犯罪類型に非常に共感してしまうたちの人間である。きれいごとを抜きにして言わせてもらえれば、多くの人間は潜在的に殺人願望を有していると言っても過言ではない。それは、ドラマや小説の中では、恋愛と同じくらいの頻度で、殺人と絡むストーリーが存在している事実からもうかがえよう。これは、愛やエロスの衝動と同じくらいの強さで、殺人や暴力に対する衝動を人間が抱えもっていることの証左でもある。それを物語の鑑賞や創造的破壊と言った代償行為によって、多くの人々は犯罪から免れているにすぎないのだ。ゆえに、本能のはけ口や合法的な代償の手段を失った人々が、このような行為へと駆り立てられていくのは、むしろ必然的であると言ってもよい。

 もう一つ、「無差別」の意味についてである。これは、怒りの矛先が社会という抽象的な存在に向けられているということに他ならない。従来型の犯罪では、怨恨の対象が特定個人に向けられていた。社会で長く働いていれば、殺したい思う相手が一人や二人いても、けして不思議ではない。しかし、怨恨感情は一朝一夕にして形成されるものではなく、それなりの熟成期間を必要とするものである。私もかつて同僚の中にそういった存在がいたが、その者に対する感情は20年近い年月を経て培われたものであった。ところが、派遣労働の場合、職場がコロコロ変わるのが通例であり、しかも身分が不安定であるため、短期間にかなり強烈ないじめに会うこともしばしばである。すると例えば、ある職場でAからひどい仕打ちを受け、次の職場でBからいじめを受けた場合、AやBという一個人に対しての恨みを蓄積するだけの時間が足りないのである。しかし、職場が変わっても、同様のストレスにはさらされ続けいく。そのため、怨恨の対象が特定されぬまま、方向性を持たぬ憎悪や怒りの感情だけが溜っていくことになる。

 そしてさらに、今はこの感情を吸い上げるだけの社会的装置が消滅してしまっている。「蟹工船」がベストセラーになっていることからもうかがえるよう、劣悪な労働環境が若者の間に広がっているにもかかわらず、小林多喜二が夢見たようなマルクス主義の理想や労働運動に対する期待感は誰も抱けないでいる。労働組合は、ごく一部の企業においてしか有効に機能しえないし、その一部の企業でも組織率は毎年低下している。そして、行政は基本的に企業の味方であり、このことは労働基準監督署が労働者の声に耳を傾けていない現実によっても示唆される。

 そして、低所得の若者は、恋愛や結婚からも排除され、それは秋葉原の事件によって端的に示されていた。行き場を失ったエロスとタナトスが入り混じりあい、矛先となるべき対象も見出せないないという、完全な閉塞状況の中で暴発しているのが、昨今の事件であったと言えるだろう。

 しかし、私は何も、このような犯罪者を擁護し、情状酌量し減刑すべきだとは露ほども考えない。このような犯罪を起こした状況がリアルに想像できるだけに、もし自分がその立場だったら、潔く死を望むだろうと確信できるからである。謝罪しない容疑者が多いと言うが、これはある意味、社会の矛盾が己に憑依したような感覚に襲われているからではなかろうか。今後無差大量殺人が増えることが予想されるからこそ、死刑制度は絶対に存置しなければならないと考える。

 そして同時に、無差大量殺人という抽象的な社会というものをターゲットにした犯罪から発せられるメッセージに対して、耳を傾けなくていかなくてはならないのは当然である。びほう策のようなもので間に合えば越したことはないが、もっと本質的な問題が関与しているような気がしてならないのである。

 

 

2008年7月25日 (金)

介護保険の利用目的制限

私の母親は高齢で、介護保険を利用しているが、先日、ケアマネジャーと話していて、この制度のもつ奇妙な点に気づかされた。

現在母は要介護2度で、週1回の入浴サービスのみ受けているが、それだけでは利用時間をすべて使いきれていなかった。そのため、ケアマネジャーからデイサービスの利用を勧められ、一度試しに見学に行ってみたが、本人が全く興味を示さないので、それも立ち消えとなっていた。

そこで、ホームヘルプで掃除を頼めないかとケアマネジャーに頼んでみたところ、急に困ったような表情になり、難色を示すのである。清掃はホームヘルプの中でも最も利用頻度の高いサービスと思っていたので、不思議に思い、その理由について尋ねた。すると、驚くべく答えが返ってきた。

つまり、うちの家族で母親以外は介護認定を受けていないので、他の者がやればよいと行政から解釈されると言うのだ。ちなみに父親は90歳である。あるいは息子の私がやればよいということらしい。私は当然働いているが、私の仕事が掃除ができないほど長時間働きづめであるという事実を証明できないかぎり、許可されないだろうと言うことであった。しかも、利用できるサービスというのは、箒でサッサと掃く程度の簡単な掃除のみで、床拭きとかレンジ廻りの油汚れは対象外とのことであった。中には、草取りまで要求してくる方もいるんですよと、困ったように言っていた。

しかし、箒でサッサと掃く程度のことであれば、今の母親でもできるのである。だが、油汚れの掃除とか、焦げた鍋の汚れをクレンザーで落とすなど難易度の高い清掃は、年寄いた母親には無理である。当然家族の者にとっても負担が大きい。だから、難易度の高い清掃に関してこそ、ホームヘルプを利用したいと考えるのは、普通であろう。しかし、現実は逆なのだ。

後日、別の介護事業者の職員と話す機会があったが、このような利用目的制限には、現場からも疑問視する声が上がっているという。介護を受けている母親以外は受験勉強中の娘しかいないといった家庭でも、その娘がいるので、清掃のサービスは受けられなかったという話だ。また、旅行もダメだし、選挙に行くときも利用できないということだ。これなど、明確な憲法違反ではないのか。

草取りにしても、家でできる者がいなければ、草ぼうぼうとなり、昔よくあったきちがい屋敷のように、周囲から偏見の目にされされることになろう。また、最近は悪質業者もおり、年寄りがうっかり草取りを頼もうものなら、後で法外な料金を請求されたりすることもある。一頃問題になったリフォーム詐欺のような事件にもなりかねないのだ。

確かに、女性の多いヘルパーにとっても、これらは重労働には違いない。だったら、住宅改修を指定工務店に委託する時のように、水廻りの清掃や草取りを介護事業者から指定業者に委託できるようにすればよいだけの話だ。何もかも介護事業者がすべて抱え込もうとせず、不得手な分野に関しては専門の業者に委託すれば、お金も社会全体に回るし、利用者の満足度も高まるので、いいことづくめではないか。また、指定業者制にすれば、悪質な業者も排除しやすくなることだろう。

この間、日雇い派遣で運送業のバイトをしたが、エアコンの配送も行っているその会社では、取り付けまではできないので、販売店からいったん運送会社まで移した後、専門業者に引き渡し、エアコンの取り付けはその業者が行っていた。このような合理的分業こそが、民間の一番の強みなのではなかろうか。行政だとこのような分業はしづらい面もあるだろうが、介護保険は民民の契約なのだから、このくらいの柔軟性があってしかるべきだろう。

一方に、介護保険制度の背景には、ノーマライゼーションという思想があるはずである。すなわちそれは、コミュニティケアによって、在宅でも普通と同じ生活ができることを、社会が保障するといった考え方である。台所に油がこびりつきどろどろとなり、庭は草ぼうぼうの生え放題、便所からは臭気の漂う家が、普通と果たして言えるのだろうか。

そして、肝心なところへのサービスを拒絶しながら、デイサービスなどという望んでもいないことばかり、セールスマンよろしく何度も勧めてくる。これでは、利用者にメニューを合わせるのではなく、メニューに利用者を合わせていることになろう。新しい福祉では利用者主体というキーワードが強調されているはずだが、利用目的制限を行う介護保険のどこに、利用者主体の精神があるというのか。

介護保険制度誕生の背景には、措置から契約へという福祉思想における大転換があったはずである。だから、後のことは、民民の契約に任せておけばいいのに、行政はいまだに措置の頃の感覚が抜け切れず、利用目的制限などと、余計なところにまで口をはさんでくる。もちろんモンスターペアレントが増えているご時世だから、中にはとんでもない理不尽な要求をしてくる利用者家族もいることだろう。それには、断固として対処すべきである。しかし、草取りをしてくれといったことが行きすぎた要求だとは、到底思えないのである

そして、介入しなければならない肝心の部分に対して、行政が手を拱いているというのは、このブログでさんざん指摘してきた通りである。

2008年7月19日 (土)

「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中」について一言

昨日の「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中」(日本テレビ)について一言。マニフェストは、「派遣社員が1年働いたら、正社員として採用する」というもので、提案者はサンドイッチマン。サンドイッチマンは昨年のM1で優勝するまでは長いバイト生活を余儀なくされており、実体験にもとづいてのプレゼンはなかなかよかった。

さて、中味に関してだが、この手の議論に必ず出てくる主張の一つに、派遣社員から脱出するために資格を取るとかの努力をするべきだ、というものがある。この番組でも、経営者サイドの連中がその手の主張をしていた。しかし、この発言の裏には、派遣労働(その多くは単純な力仕事)そのものが、脱却しなければならぬほど価値の低いものであり、資格に基づく仕事(その多くはデスクワーク)の方が価値が高いといった偏見がある。これに対して、出演していた覆面の派遣社員が、「資格を取るためにお金もかかるし、自分たちにはその時間もない」と反論していたが、これでは自分の仕事の価値が低いことを認めてしまうことにならないか。

派遣労働は本当に価値が低いのだろうか。派遣でよくやる仕事に「荷揚げ」というのがある。中でも石膏ボードは、重量があるだけでなく、脆く破損しやすいため、天井や周囲の壁とぶつけぬよう、細心の注意を払って運ばなければならない。以前、3枚の石膏ボードを、スペースの窮屈な階段の中を猛烈なスピードで運ぶベテランがいたが、それを見て私は、「神業だ!」と思った。あれなど、単に力だけでできるものではけしてなく、周囲の位置関係を瞬時に把握する高度の空間認知能力が不可欠であろう。

私自身、現在も日雇い派遣の仕事をしているが、その多くは、たとえ補助作業であっても、それなりのキャリアを必要とし、極めて行けば奥の深いものばかりである。それを貶めているのは、仕事そのものより、社会の見方の方なのではなかろうか。

また、派遣の作業は、一連の工程の中の不可欠な部分を担っているのだから、それを否定してしまったら、一体誰がそれをやるというのか。資格を取って、もっと給与の高い仕事に転職せよという人は、この仕事を否定していることになる。人々が、きつくて汚い仕事から免れられているのは、それを誰かが引受けてくれているお陰なのである。そういう人々に対して、努力不足を非難するなど、とんでもない話である。

今でこそ、日本はサラリーマン社会になってしまったが、江戸時代などは、「宵越しの金は持たない」という言葉にも見られるように、多くの人たちが、その日暮らしで、しかも肉体を使った仕事に従事していたはずである。この労働形態は、むしろ派遣社員のそれに近い。私は派遣社員がその生活にどっぷりとつかってしまう理由の一つに、このような過去回帰願望があるのではないかとさえ疑っている。

ところで、私は心情的にはこのマニフェストを支持する人々に与するが、法案そのものには反対である。こんな法律ができたところで、それを遵守する経営者がどれだけいるというのだろう。違法行為が続出するような法律を作れば、法律の権威がますます失墜するだけである。

特に労働法関係は、違法が横行しているので、新しい法律を作るよりも、むしろ既存の法律をきちんと守らせることの方が重要である。番組の中でも、派遣業法では派遣期間は3年間で、それ以上雇う場合は正規雇用しなければならないという規定があるが、これを悪用して、2年11ヶ月目で解雇する企業が後を絶たないという指摘があった。このような脱法行為を、徹底的に取り締まることの方が先決ではないか。

派遣業界は、まさしく違法行為の温床である。現に私の登録している派遣会社は、一般派遣労働者派遣事業の許可さえ受けていない、いわゆる闇の業者だ。また、許可を受けている業者の中でも、禁止されているはずの建設業への派遣や、二重派遣が公然と行われている。

同様に、労働基準法も、守らない会社が無数に存在する。特に1~2割は存在すると思われるアウトロー系企業では、労基法でだけでなくあらゆる法律が無視されまくっている。こういった違法行為をきちんと摘発し、悪質な経営者は実刑判決を与え、牢屋にぶちこむ。違法に慣れ、たるみきった経営者たちの襟を正させることが、労働環境全体の改善につながっていくのである。

2008年7月13日 (日)

小さな暴君

 起業する人間は、サラリーマン時代のルサンチマンを溜め込んで、

「自分が社長になったら、今度は自分が楽をして、自由気ままに社員たちをこきつかってやろう」

と考えている連中が多いものです。

 たとえ性格の良い経営者でも、ワンマン体制に慣らされていくうちに、次第に感覚がおかしくなってゆくのです。

そういったケースを、私は何度も目撃してきました。要は、内外からのチェックの働かない状況の中では、経営者はすべからく「小さな暴君」と化し、人間が本来もっている狂気を、増長させていくのです。

これは、もちろん大企業でも起こりうることですが、対抗勢力がなく、社会的認知度も低く、マスコミの非難にさらされにくい中小企業において、より起こりやすい問題なのです。

また、労働組合方式は、大企業においては有効でしょうが、社員が2、3ヶ月おきに入れ替わる、社員4~5人程度の中小企業においては、組合など作れるわけがないのです。よほど執念深いに人間でもないかぎり、そんな会社にかかわりあっているよりは、別のところを探そうとします。

しかし、そのような諦めの良さが、この体制を維持させます。経営者の方も、それを見越して従業員を頻繁に入れ替え、その結果、被害を受ける従業員は、いつまで経ってもなくなりません。

評論家は、そんな企業は競争に勝てずに消えていくなどと、暢気なことを言うかもしれもせんが、このような形で経営を維持していける業種は、たくさんあるのです。

そして、理不尽な解雇をされた後、労働基準監督署に駆け込んでも、取り合ってくれない場合が多いのです。

例えば、監督署の職員はその企業の名前をすでに知っており、

「クレームの多い問題企業なので勧告しても恐らく従わないであろう、だから後は自分で裁判をやってくれ」

と回答されたことがあります。

しかし、ハローワークではその会社の求人票を、その後も引き続き掲載しているのです。これでは、ハローワークが悪徳企業の片棒を担いでいるのと同じです。

これは私自身の体験ですが、この場合、予告手当てなしの即日解雇という明確な労働基準法違反があったにも関わらず、行政指導できないという回答でした。

問題企業だからこそ、行政が強く介入しなければならないのに及び腰になって匙を投げてしまうというのは、なんたることでしょうか。他にも労働基準監督署で門前払いされたという例はよくあります。

中小企業の社長たちの多くは、労働基準監督署の勧告など大して気にとめていないし、それどころか監督署の調査員を追っ払ったことが、自慢話になっているくらいです。このような労働基準監督署の弱腰が、経営者の従業員に対する理不尽な行為を助長させていくのです。

2008年7月10日 (木)

食品偽装問題その他

 船場吉兆や飛騨牛偽装問題に引き続き、ブラジル産給食用鶏肉を国産と装った業者が書類送検された。マスコミの追及を受けた奥山社長が、「こんなことは誰でもやっている」と悪びれずに答えたが、私は拍手を送ってやりたい気分に駆られた。これはまさしく本音であり事実であろう。どうせ75日も経たぬうちに忘れてしまうであろうマスコミが、たまたま網にひっかかった獲物に対して、正論をぶつけたとしても、そんな批判に何の意味があろうか。中小企業を中心に、法律がないがしろにされているということは厳然たる事実であり、今回は、その氷山の一角が表面化したにすぎない。

 そして、マスコミの関心は、もっぱら「食の安全」にかかわる事柄にのみ集中しているが、私に言わせれば、 このように一部の企業が無法地帯化しているという点そのものが問題視されねばならぬのである。一つの違法行為をやっても何らおとがめなしという「成功体験」をもった経営者たちは、次々と同種の行為を繰り返すのである。だから、違法行為の裾野はもっとずっと広がっているはずである。それを掘り下げずして、「食の安全」という大衆受けする部分のみ拾い上げても、真の問題解決につながらないのである。

 この一連の騒動で、もう一つ印象深かったのは、飛騨牛偽装問題の時、従業員がカメラの前で社長に向かって「あなたの指示だった」と告発した場面である。

 それに対して、社長は「なにおっ」というような言葉を一言吐いただけで口をつぐんでしまったが、あれがもしカメラの前でなかったら、凄まじい罵声が飛び交っていたに違いない。

 あの社長は、耐震強度偽装のヒューザーの小島社長を彷彿とさせるが、この手のワンマン経営者は、従業員が一言楯突いたら即刻クビにするものである。だから、従業員が会社の違法行為を社長に向かって指摘することは、現実的にありえないのだ。あの従業員は、問題がここまで表沙汰になったことによって腹をくくったからこそ、あのような勇気ある行動がとれたのである。そうでなければただ解雇され、そのまま忘れ去られるだけで、その行為は何の意味ももたない。

 ところで、平成18年、「公益通報者保護法」が施行され、法令違反行為を労働者が通報(内部告発)した場合、解雇等の不利益な取扱いから保護されることが、法律によって規定された。

 しかし、このような法律ができてもむなしい気がする。なぜなら、もし経営者が、この法律を守らなかったとしても、事業者に対して刑罰や行政処分が課せられることはないからである。私の見てきた悪徳経営者たちは、違法行為などへでもないし、前科とてもほとんど意に介さない。彼らにとって執行猶予のついた有罪は無罪と同じであり、彼らが唯一恐れるのは実刑判決のみなのである。

 こういった連中がごまんといる中小企業業界において、こんな法律が有効に働くとはとても思えない。

 そして、日本は、法的制裁より社会的制裁の方が遥かに厳しい国である。もしヒューザーの小島社長のような経営者の下で働いている従業員が、内部告発したとしたら、その後も引き続きその会社にいられるわけがない。そして、そんな針の莚にいることを要求するような法律が、いかに非現実的であるかということを、立法担当者はよく思い知るべきである。法案を作った者は、どうせ身分保障がされている公務員であろう。彼らには、内部告発した社員が、孤立無援の中でどのような状況に追い込まれるか想像することさえできぬのであろう。

 そんな非現実的な制度より、経営者の違法行為を発見し摘発するための、もっとよい方法がある。それは、飛騨牛偽装問題で、カメラの前で語った従業員のように、退職を決意し腹をくくった元社員による情報提供を促し、積極的に吸い上げることである。

 この窓口として現在のところ、一番適しているのは労働基準監督署である。解雇された直後の者は、会社の行っている不正について、ぶちまけたい気分でいっぱいのはずである。たとえ、労働から離れた問題であったとしても、社会的に重要な事柄であれば、関連する役所に通報することが何故できないのだろうか。そうすれば、どれだけ多くの事件が早期に発見でき、未然に防げることだろうか。

 ところが、現実の労働基準監督署は、自分たちの本来の職務である労働法上の違反についてさえ、見て見ぬふりしたり、匙を投げたりしているのである。

「悪すぎて、自分たちとしては何もできない」

という労働基準監督署職員の言い草を、私は一生をわすれないだろう。

 方法はいくらでもあるのだ。早くなんとかせい。

2008年7月 5日 (土)

モンスタープレジデント

フジテレビで、ドラマ「モンスターペアレント」が始まった。モンスターペアレントとは、学校で教師に対して理不尽な要求をする親のことをさす。この問題が、社会的関心事となっている今日、まさに時宜を得た企画と言えよう。

第1回では、米倉涼子演ずる辣腕女性弁護士が、法律事務所所長の学友である教育長から依頼を受け、教育現場でモンスターペアレントの実態を目のあたりにする。その中で、一つ気になる台詞のやりとりがあった。親の行動が目にあまるので、その女性弁護士が法に訴え、その親に対して損害賠償請求を起こしたらどうかと言ったところ、熱心な指導主事(佐々木蔵之助)が、「教育の門外漢が勝手なことを言って、教育現場を混乱させるな」と怒鳴ったのである。

しかし、果たしてそうだろうか。このケースの是非はともかく、親の行動が常軌を逸し法的限度を明らかに越えた場合、法的手段を講じるというのは当然取られてよい選択肢の一つではなかろうか。ちなみにこのドラマでは、執拗な親の攻撃に悩んだ教師はノイローゼになりとうとう自殺未遂まで起こし、その結果退職を余儀なくされたのである。

先日の「朝まで生テレビ」でもこのテーマが取り上げられ、親の要求が恐喝に近いような場合警察を呼ぶべきだと発言した元警察官僚の平沢勝栄議員に対して、現場の教員が、すでに警察を呼んだことはあるが来てくれなったと答えている。教育現場におけるモンスターペアレントの問題は、すでに警察の介入を検討しなければならないほど危機的状況に至っているのである。

 佐々木蔵之助演ずる指導主事は、さらに「モンスターペアレントなんて言葉を使うな」と叫ぶが、それはこの問題が、法律的解決にはそぐわないデリケート性質を含んでいると言いたいがためであろう。しかし、こうした親の行動が、貧乏でもないのに給食費を支払わない親、大した理由もないの110番や119番する者、クレイマー等のそれと軌を一にしていることは、灯を見るより明らかであろう。このような行動に対して腫れ物に触るように対処していたら、ますます増長させ解決を遅らせるに難くないことは、考えてみるまでもない。

 最近では「モラルハザード」などという言葉もよく使われるが、約30年前、小室直樹が警鐘を鳴らした社会のアノミー現象が、より本格的に進行した結果とも考えられる。

 アノミーであるからには、何も教育現場に限った話ではなく、社会全体に広がり我々の意識を蝕んでいると言ってもよいだろう。そして、「モンスター」というレッテルを貼るには相応しい行動が最も頻々に起きているのは、中小企業の世界に他ならないのである。「モンスターペアレント」になぞらえれば、「モンスタープレジデント」とでも言ったらよかろうか。このような社長の存在は殊に珍しくもなく、それも昨日今日に現れたわけでもない。

 中小企業と言う、閉鎖的かつ無法地帯的性質が、独裁者としての社長の常軌を逸した行動をどんどんエスカレートさせ、手の付けられないものへと変貌させてゆく。船場吉兆や飛騨牛偽装の問題でも、ワンマン経営者のおぞましい素顔がのぞかれたが、あれは特殊なケースでも何でもない。

 そしてモンスターペアレントに象徴される現象は、今までは、中小企業と言う限られた領域に凝縮して発現されていた人間の狂気が、他の領域まで飛び火しだしたことを意味する。言わば、狂気の底上げである。これが臨界点を越えた時、日本社会は間違いなく崩壊し、滅びるだろう。

 そして、このように根っこにおいてつながっている現象に対処するときは、すべて同一の方法が取られるべきである。親だろうが、クレーマーだろう、社長であろうが、チンピラだろうが、法律を越えた時には厳格に罰を与えるしかない。要は道徳やモラルが用をなさなくなってきている以上、法律によってそれを補完するしかない。現在、考えられる有効な手立てはこれしかないのである。

 

2008年7月 3日 (木)

日本はヤクザ社会だ

 新銀行東京の累積赤字問題で感じるのは、行政が反社会勢力の存在を過小評価していたことであろう、と思われることである。責任問題ばかりが追及されているが、融資を受けた中小企業の実態についてはあまり踏み込んで語られていない。想像するに、債務者の中には、初めから銀行を騙して踏み倒すつもりでいた者が相当数いたと思われる。これには、暴力団関係者もいるだろうが、ごく普通の一般市民も含まれる。いわば、脳天気な性善説を信じた役人たちが、完全にしっぺ返しを受けたという形だ。そして、無駄な税金を投入したこと以上に問題なのは、これらの悪党連中にさらなる力を与えてしまったということなのだ。

 私がかつて勤めていた会社の社長は、定期的に借り入れをしては踏み倒しを繰り返していた。この一定期間というのは、要するに信用情報機関のブラックリストから抹消されるまでの間という意味である。以前大手金融にいた彼は、金融機関の手の内を知り尽くしており、回収担当者とのやりとりをゲームのように楽しんでいた。私が勤務していた時は、まだブラックリストに登録されていたので、それが明けるのをてぐすねひいて待っていたというわけだ。

 こうした人物を少数の例外者とする想定は、もはや通用しなくなりつつある。ちなみにこの社長は、暴力団とは全く関係はないし、一見したところ立派な紳士である。

 経済学で対象とするホモ・エコノミスは、合理的かつ合法的な行動をする人間であるが、この「合法的」というのはもはや見直さなくてはならなくなりつつある。日本のような「弱制裁社会」においては、違法行為を行ってもほとんどの場合、制裁の恐れがない。つまり、低リスクで資金が獲得できるわけだから、そのような行動はむしろ経済的合理性が高いと言えるのである。

 また、内的規範の弱いわが国の文化的特質は、そのような行動へと駆り立てやすいとも言えるだろう。よく日本は、罪の文化ではなく恥の文化と言われるが、大企業ならマスコミによってしばしば叩かれるであろうが、小さな企業の場合、公表されて恥をかくリスクもほとんどないということになる。そして、経済的合理性が高い行動であるがゆえに、彼らは成功への階段を駆け上ることとなり、その結果、そこで働く者たちは、それを手本として学ぶ。

 かつて折口信夫は、武士道をごろつきの道徳と呼び、最近では菅野覚明が、「武士道の逆襲」の中で、武士とヤクザの類似性について指摘している。ヤクザが支配階級として、1000年も君臨した日本社会において、我々のDNAの中にアウトロー的素質がふんだんに宿っているとは言えないだろうか。そして、「弱制裁社会」の中で、アウトロー的手法による成功を目の当たりにした者たちはその潜在的傾向を開花させ、オセロゲームのように己の価値観を白から黒へと反転させていくのである。

 もちろん、黒へと反転させることのできない者たちもいるであろう。しかし、多くの場合、行政に告発しても見て見ぬふりをされるのが落ちである。となれば、怒りの矛先をどこに向ければいいのであろうか。「弱制裁社会」の行きつく果ては、もしかしたら「テロ社会」かもしれない。秋葉原の事件も、その予告のように思われてならない。

 そういえば、現都知事は、かつてヤンキーの代弁者として文壇に華々しくデビューした人である。皮肉な話である。

2008年7月 1日 (火)

外国人イジメをするな!

 労働基準監督官の実態について調べたいと思い、図書館のHPで検索したが見つからないので、「労働基準監官の仕事がわかる本」(法学書院)を借りた。これは、「公務員の仕事シリーズ」というツノガキが示すように、これから公務員を目指す若者たちのために現役の労働基準監督官が自分たちの仕事の内容について自ら語ったものである。当然当たらず触らず内容になるのはやむを得ないが、それでも注意深く読んでいくと、思わぬ発見があるものである。

 労働基準法の前身が工場法であるせいか、ヘルメット姿の労働基準監督官の姿や工場風景の写真が随所に掲載されている。

 そして、労働基準監督官が摘発した問題企業の事例報告があり、これもほとんど工場のケースであるが、その中に例外が2つだけあった。そして、これが2件とも、外国人のケースなのだ。一つはパキスタン人が経営するインドカレー店における給与未払い、もう一つは、外国人(国籍は書いていない)が経営する英会話学校における、これまた給与未払い事件。後者では、「被疑者は日本語を理解し、しゃべれるにもかかわらず、英語でまくし立てて、何とか煙に巻こうとする、この外国人の手口にはいつもうんざりさせられる……」(p60)などと、ハードボイルド調のコメントまで寄せている。そして、あたかも、日本における労働法違反を起こす経営者のほとんどが、外国人であるかのような印象を与えているのだ。

 しかし、私が解雇予告手当てなしの即日解雇という明確な労働法違反で、労働基準監督署に訴えに行ったとき、面接官は、その企業名をすでに知っており、あまりにもクレームが多過ぎるので行政指導では対処できないと言って、門前払いしたんだよね。恐らく、それらのクレームの中には、その社長が筋者だという情報も含まれていたのだろう。要は、労働基準監督署はヤクザに弱いくせに、相手が外国人となると居丈高になってるんじゃないかな。

 日本国内の外国人経営者なんてほんの一握りに過ぎないはずだ。その連中が、日本の労働法犯罪を代表しているなんてこと、あるわけねえだろうが。

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